川越城中ノ門堀跡|西大手門と三丸門のあいだに設置された門と堀
川越城中ノ門堀跡の概要
川越城中ノ門堀跡は、川越市にある名所旧跡です。川越城中ノ門堀跡は、西側に城下町の広がっている川越城で、西側から攻めこまれたことを想定して、寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱が川越城を大改修、その際に築造された堀と門の跡です。西大手門から進入して本丸へ攻めこまれるのを防ぐために、西大手門と三丸門のあいだに、中ノ門を置き、中ノ門堀を含む3本の堀で直進できないよう筋違えの構造だったそうです。明治維新後の取り壊しにより多くの建物・堀がなくなり、現在では旧城内に残る唯一の堀跡で、平成20・21年度に整備工事が行われました。
名称 | 川越城中ノ門堀跡 |
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みどころ | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 川越市郭町1-8-6 |
備考 | - |
川越城中ノ門堀跡の由緒
川越城中ノ門堀跡は、西側に城下町の広がっている川越城で、西側から攻めこまれたことを想定して、寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱が川越城を大改修、その際に築造された堀と門の跡です。西大手門から進入して本丸へ攻めこまれるのを防ぐために、西大手門と三丸門のあいだに、中ノ門を置き、中ノ門堀を含む3本の堀で直進できないよう筋違えの構造だったそうです。明治維新後の取り壊しにより多くの建物・堀がなくなり、現在では旧城内に残る唯一の堀跡で、平成20・21年度に整備工事が行われました。
新編武蔵風土記稿による川越城中ノ門堀跡について
(河越城幷城下町)
外曲輪
三所あり、共に三丸の西なり、其三丸の堀に添たる所には、侍屋鋪作事役所等あり、門は六ヶ所あり、其一は前に云へる三丸へ通ずる門なり、西の端本町へ出る馬出の内に門あり、西大手と云、三丸門と西大手の間にあるを中門と云、此より南に因たる方に埋門あり、(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による川越城中ノ門堀跡について
川越城と中ノ門堀
川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。天文6年(1537)、小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を磐石なものとします。しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭としての体裁を整えるにいたりました。中ノ門堀はこの松平信綱により城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。
現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行15尺2寸(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。(境内掲示より)
境内掲示による中ノ門堀について
中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。西大手門から本丸(博物館方面)をめざして進入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄炮を撃ちかけるしくみでした。また、発掘調査では城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60°、西側は35°でした。つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。
明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成20・21年度に整備工事を行いました。(境内掲示より)
川越城中ノ門堀跡の周辺図