光西寺。浜田市から藩主・藩士に随伴してきた寺院
光西寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の光西寺は、緇田山浄楽院と号します。光西寺は、永禄9年(1566)に恵誓法師が島根県浜田市に開基、浜田藩士の菩提寺だったことから、十代藩主のとき福島県棚倉へ左遷転封された際に随伴、さらに老中・川越城主として転封された際にも随伴したといいます。転地したのが慶応2年(1866)だったことから、寺領も与えられることなく明治維新を迎え、大正年間末期に当地に小堂を建立、現在は山門を備え再建を果たしています。
山号 | 緇田山 |
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院号 | 浄楽院 |
寺号 | 光西寺 |
住所 | 川越市小仙波町5-4-7 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
本尊 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光西寺の縁起
光西寺は、永禄9年(1566)に恵誓法師が島根県浜田市に開基、浜田藩士の菩提寺だったことから、十代藩主のとき福島県棚倉へ左遷転封された際に随伴、さらに老中・川越城主として転封された際にも随伴したといいます。転地したのが慶応2年(1866)だったことから、寺領も与えられることなく明治維新を迎え、大正年間末期に当地に小堂を建立、現在は山門を備え再建を果たしています。
境内掲示による光西寺の縁起
光西寺は、永禄九年(1566)に石州浜田(島根県浜田市)に、恵誓法師を開基として寺が建立されたのに始まる。浜田藩士の菩提寺として尊崇されていたが、天保七年(1836)、十代藩主康爵の時、藩は日本海の孤島「竹島」を根拠地として外国との貿易(当時は禁制)を行って、幕府の政策に違反した。ことは幕府の密偵間宮林蔵の調べで露見し、藩は本来ならばお家取り潰しになるところ、徳川家の親藩の故をもって減刑、重臣の岡田頼母、松井図書の二人が責任をとって切腹、船頭が処刑され、藩は奥州棚倉(福島県)に左遷転封されるにとどまった。家臣ともども光西寺も棚倉に転住し東林寺に仮住まいした。棚倉在住三十余年、維新の危機に直面した幕府は、城主松平周防守康英の英明と外交的手腕を重視し、老中職に任じ川越城主に転封させ国内国外の重要政務の責任者とした。慶応二年(1866)十月、光西寺も家臣とともに川越に転地し、南町養寿院門前の千手院を仮寺とした。その翌々年は明治元年、明治維新となったので、寺領も貰えず寺の建立もならず、漸く大正の末に現在の場所に小堂を建立したのである。藩についてきた寺ということで士族寺とかお供寺とかよばれている。(境内掲示より)
「入間郡誌」による光西寺の縁起
光西寺
南町にあり。養壽院門前にあり。元養壽院所屬千壽院の寺地なりしが、松平周防守川越へ入城するに當て、寺も随伴して、此地に来れる也。然れば寺の川越町に建てられたるは五十年を出でずと云ふべし。(「入間郡誌」より)
光西寺の周辺図