安行吉岡氷川神社。鎮守神明社を合祀
安行吉岡氷川神社の概要
安行吉岡氷川神社は、川口市安行吉岡にある氷川神社です。安行吉岡氷川神社の創建年代は不詳ながら、宝永6年(1709)銘の棟札が残され江戸時代中期には祀られていたと推定されます。もと安行吉岡の鎮守社として神明社があったものの、江戸時代には当社が村の鎮守社となり、江戸時代末期には神明社を当社へ合祀しています。
社号 | 氷川神社 |
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祭神 | 素盞嗚命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 川口市安行吉岡 |
備考 | 旧安行村吉岡組の鎮守 |
安行吉岡氷川神社の由緒
安行吉岡氷川神社の創建年代は不詳ながら、宝永6年(1709)銘の棟札が残され江戸時代中期には祀られていたと推定されます。もと安行吉岡の鎮守社として神明社があったものの、江戸時代には当社が村の鎮守社となり、江戸時代末期には神明社を当社へ合祀しています。
新編武蔵風土記稿による安行吉岡氷川神社の由緒
(安行村吉岡組)氷川社
村の鎮守なり、明和の頃の草創なりと云。
別当東福院
新義真言宗、慈林村寶蔵院の門徒なり、松永山と云、本尊不動を安ず。
神明社
古の鎮守なり、村持(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による安行吉岡氷川神社の由緒
氷川神社<川口市安行一〇五九(安行字宮越)>
吉岡組には、本村である大字安行に鎮座する当社と同じ神を祀る氷川社がある。この氷川社は、明治四十年に当社の本殿へ合祀されたが、社殿は現在も地元に残り、祭祀が行われている。由緒は『風土記稿』に「明和のころ(一七六四-七二)の草創」とあるが、現存史料には更に古いものがある。まず、宝永六年(一七〇九)九月吉日の棟札によると、二十三夜講施主により、「氷川大明神前立形像」が造立されている。この時の別当法印は東福寺の賢永であり、願主は中山新八良ほか九名である。また、享保九年(一七二四)三月三目、神紙管領吉田兼敬から「正一位」の極位が許された折、発給された宗源宣旨と祝詞がある。特に祝詞は、氏子が葦毛の馬を飼うことと、間口五間の家を作ることを悪しき事として止められていたが、当社が正一位を授与されたのを機に当社祭神に許容されることを願った旨が奏されている。更に嘉永三年(一八五〇)十一月の棟札によると、村内安全のため、社殿を再興している。その願主は、須賀小兵衛ほか一五名である。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
安行吉岡氷川神社所蔵の文化財
銅造懸仏(川口市指定文化財)
懸仏は、銅板や鉄板に仏像を鋳して、柱や壁などに懸けて礼拝したもので、中世に盛んに行われた信仰方法です。この懸仏は、鋳銅製で円形鏡面直径18.3㎝、厚さ0.5㎝に覆輪を付け、両肩には吊すための耳を同鋳しています。鏡面中央には像高7.8㎝の十一面観音像を配しており、観音像は垂髪を結い、五面の変化面を付け、通斎の納衣を纏っています。右手は膝上に置き、左手は屈臂し、水瓶を持って蓮台上に座しているものです。
この懸仏は、もと安行吉岡組の鎮守神明社の本地仏十一面観音像を配した御正体で、新明社は江戸時代の後期に現在の氷川社に合社され、そのためこの氷川神社に伝えられているものです。作風から見て室町時代後半の作と考えられます。(川口市教育委員会掲示より)
安行吉岡氷川神社の周辺図