上青木氷川神社。分村に際して青木氷川神社を勧請
上青木氷川神社の概要
上青木氷川神社は、川口市上青木にある氷川神社です。上青木氷川神社は、青木村が上下二村に分村した際、青木氷川神社(応永年間1394-1428創建)の分霊を勧請して文明2年(1470)創建したといいます。江戸期には村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、上青木地内の諸社を合祀しています。境内には、明治維新後の神仏分離に際して別当寺明達院を廃して復職した土屋喜三氏を祀る土屋喜三祠や、武州足立百不動尊霊場93番の大聖不動尊があります。
社号 | 氷川神社 |
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祭神 | 素盞嗚尊、櫛稲田姫命 |
相殿 | - |
境内社 | 天神社、天神社二社・稲荷社合殿、八雲・琴平・稲荷・三峯・熊野合殿、八幡・御嶽・神明合殿、土屋喜三祠 |
祭日 | 例祭10月15日、天神祭り2月25日 |
住所 | 川口市上青木2-27-26 |
備考 | 大聖不動尊(93番) |
上青木氷川神社の由緒
上青木氷川神社は、青木村が上下二村に分村した際、青木氷川神社(応永年間1394-1428創建)の分霊を勧請して文明2年(1470)創建したといいます。江戸期には村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、上青木地内の諸社を合祀しています。
境内掲示による上青木氷川神社の由緒
上青木氷川神社は室町時代中期文明二年(皇紀二一三〇年)約五五〇年前の創建にかかる地方(武蔵国)の古社であります。創建二四五年後の正徳五年乙未年に本殿及び拝殿を再建し、その後、創建より三三六年の血の文化三年甲子年に、拝殿を修繕しました。明治六年四月には旧社格村社に列格されました。
また、斎主として明治初年の神仏分離により、明達院の院主は復職して土屋喜三と名乗り、社掌となるとともに神道大成教訓導として活躍します。その後は下青木村の氷川神社の鈴木力と交替しております。昭和三十年に神社を合祀し、現在に至ってます。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による上青木氷川神社の由緒
(上青木村)
氷川社
村の鎮守なり、往古は下青木村の氷川明神を鎮守とせしが、上下二村に分村せしときに、當社を勧請せしと云、社内に寛永四年の棟札あれど、是も再造のものなり、
別當明達院
本山派の修験、中尾村玉林院の配下なり、宮崎山と號す、元禄の水帳にも文殊院と載せしかば、當院の事にてその後今の院號に改みしと云、
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八幡社
御嶽社
神明社
天神社
當社は菅神を祀りし社にて、近き頃まで社中に大同年中の棟札ありしが、何ものか取去しと云傳へたれどうけがたし、菅公は延喜三年の薨なれば、其誤なること必せり、此の上の社は明達院持なり、
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同社三宇
一は安楽寺持、二は村持なり
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稲荷社二宇
何れも安楽寺持、(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による上青木氷川神社の由緒
氷川神社(川口市上青木二-二七-二六<上青木字御嶽>)
当社は『風土記稿』上青木村の項に「氷川社 村の鎮守なり、往古は下青木村の氷川明神を鎮守とせしが、上下二村に分村せしときに、当社を勧請せしと云、社内に寛氷四年(一六二七)の練札あれど、是も再造のものなり」とある。
現存する寛永四年の棟札には「氷河社檀並拝殿造立」とあり、地頭土屋将監の名が見える。正徳五年(一七一六)の棟札には、寛氷の造営に引き続き、氏子が残らず三七両一分の奉加金を醵出して、幣・拝殿の建立に与力した旨が記されている。
主祭神は素戔嗚尊で、神像は右手に剣、左手に珠を奉持する木彫彩色の素戔嗚尊立像である。これを納めた筥の墨書には、正徳三年(一七一四)に別当文珠院とその弟子明達院が導師となって神像を納めたとある。文珠院は『風土記稿』に元禄の水帳にその名が見えるとあるが、その後退転した模様で、以後別当は本山派修験明達院となる。
明治初年の神仏分離により、明達院の院主は復飾して士屋喜三と名乗り、社掌となるとともに神道大成教訓導として活躍する。その後は下青木村の氷川神社の鈴木力と交替している。
『明細帳』によると、明治六年に村社となり、同四十年に字神明の神明社、字御獄の御嶽社・天神社・八幡社、字古川の稲荷社・天神社の六社を合祀している。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
上青木氷川神社の周辺図