朝日神社。川口市木曽呂の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

朝日神社。旧称氷川社、十月十日に諸社を合祀

朝日神社の概要

朝日神社は、川口市木曽呂にある神社です。朝日神社は、応永2年(1396)に氷川社として創建したと伝えられ、木曽呂、及び源左衛門新田の鎮守だったといいます。明治6年村社に列格、明治40年から44年にかけて木曽呂・東内野・源左衛門新田・神戸・安行領在家・道合の六大字の各神社を当社に合祀、合祀祭を行った十月十日にちなんで、(四文字を組み合わせて朝の字となる)大正2年に社号を朝日神社と改めたといいます。なお、境内社の天雲社は、木曽呂にあった天神社及びその境内社(稲荷社・神明社・八雲社)を合祀、一社としたものといいます。

朝日神社
朝日神社の概要
社号 朝日神社
祭神 素盞嗚命
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 川口市木曽呂193
備考 旧村社



朝日神社の由緒

朝日神社は、応永2年(1396)に氷川社として創建したと伝えられ、木曽呂、及び源左衛門新田の鎮守だったといいます。明治6年村社に列格、明治40年から44年にかけて木曽呂・東内野・源左衛門新田・神戸・安行領在家・道合の六大字の各神社を当社に合祀、合祀祭を行った十月十日にちなんで、大正2年に社号を朝日神社と改めたといいます。なお、境内社の天雲社は、木曽呂にあった天神社及びその境内社(稲荷社・神明社・八雲社)を合祀、一社としたものといいます。

新編武蔵風土記稿による朝日神社の由緒

(木曽呂村)
天神社。村持。末社。稲荷社、神明社、天王社
氷川社。當村及び源左衛門新田の鎮守なり、神體は石像にて、本地十一面観音を安す、薬王寺持。末社。諏訪社、稲荷社
第六天社。薬王寺
稲荷社三宇
山王社
白山社。以上村民持
(源左衛門新田)
稲荷社。村の鎮守なれど、一村の總鎮守は木曽呂村の氷川社なりと云、當社は古塚の上にありて、其塚のまはり七八間、高さ一丈許、古へは大塚村と唱へしは此塚より起こりし名なりと云、名主源左衛門持、下並に同じ。
辨天社
(神戸村)
熊野社。村の鎮守なり、村民持、下同じ。末社、稲荷社
稲荷社
(在家村)
稲荷社。村の鎮守なり
天神社
(道合村)
稲荷社。村の鎮守なり
天神社。以上大徳寺の持
神明社
第六天社。以上は村民の持(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県神社庁「埼玉の神社」による朝日神社の由緒

朝日神社<川口市木曽呂一九三(木曽呂字表)>
当社は元来氷川神社と号し、応永二年(一三九六)に創建したと伝えられる。
その後、江戸期に入るまでの事歴は不明で、社記によれば、享保七年(一七二二)神祇管領吉田家から正一位に叙せられると共に本地仏の十一面観音像が本殿に安置された。更に、文久二年(一八六二)社殿大破につき、神階叙位にかかわる宗源宣旨・宗源祝詞・幣帛が破損したため、吉田家に願い出てこれらの品々を改めて拝受したという。
先の享保七年の宗源祝詞には、氏子の間で禁忌とされていた「四間半の家作る事」「蕎麦蒔事」を尊神に許しを乞うた一文が見える。
慶応三年(一八六七)の社殿再建の棟札写しには発願主として「名主石井忠左衛門」、奉幣使として「別当薬王寺住貞祐」の名が見える。
神仏分離により薬王寺の管理下を離れた当社は明治六年に村社となり、更に同三十年に十一面観音像が薬王寺に移されて名実共に神仏分離がなされた。
明治四十年から同四十四年にかけて木曽呂・東内野・源左衛門新田・神戸・安行領在家・道合の六大字の各神社を当社に合祀し、大正二年に至り、社号を朝日神社と改めた。社名の由来は、御遷宮(合祀祭)を執り行った十月十日にちなみ、「十月十日」の四文字を組み合わせて「朝」の字を冠し、朝日のごとき隆盛を祈ったものである。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)


朝日神社の周辺図