羽盡神社。羽明玉神を祀る社、はそろい
羽盡神社の概要
羽盡神社は、川口市芝にある神社です。羽盡神社の創建年代等は不詳ながら、芝郷は古くより開け、また当社社宝で建武2年(1135)銘の秋草双雀鏡に地名芝阜や社号羽盡が記載されていることから、鎌倉時代より以前に創建していたといい、徳川家康関東入国後の天正19年(1591)には社領5石の御朱印状を拝領していたといいます。
社号 | 羽盡神社 |
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祭神 | 羽明玉神 |
相殿 | - |
境内社 | 荒波々喜社、稲荷社 |
祭日 | - |
住所 | 川口市芝5379-1 |
備考 | - |
羽盡神社の由緒
羽盡神社の創建年代等は不詳ながら、芝郷は古くより開け、また当社社宝で建武2年(1135)銘の秋草双雀鏡に地名芝阜や社号羽盡が記載されていることから、鎌倉時代より以前に創建していたといい、徳川家康関東入国後の天正19年(1591)には社領5石の御朱印状を拝領していたといいます。
新編武蔵風土記稿による羽盡神社の由緒
(芝村)羽曾呂社
或は羽盡と書し波曾呂比と訓す、社傳に云、當社は本郡の古社にして祭るところ羽明玉命なり、【日本書紀】に素戔嗚尊将昇天時、有一神號羽明王、此神奉迎而進以端八坂瓊之曲王、故素戔嗚尊持其瓊玉而之於天上也、と一書の文を載たり、されど鎮座の年代等は詳ならず、或云左にはあらず、天兒屋根命・太玉命の二座を祀れる社なりと、未何れが正しとすることを知らず、今神體とする所は径六寸の圓鏡にて、建武二年の銘文あり、上の如し、裏面に秋の草花及び雀などを鑄出たり、その圖上にのす、古鏡なることは疑ふべくもあらざれど、文體後世のものに似たれば果して當時の銘なるべしとは定めがたし、社頭の御朱印は天正十九年、村内氷室社と一神にして十五石と載られ、内五石を當社五石を氷室に附せられしなり、例祭は二月十五日・六月十四日・九月十三日三度に執行ふ。
末社。荒波々喜社、祭神は足摩槌・手摩槌の兩神なり。稲荷社。
神主關口河内。吉田家の配下にて、建武年中より子孫連綿として神職を勤めりと云、されど家系なければ詳なることは知べからず、舊記一巻ありて中古以来世々の實名を記したれど、年代等詳ならざれば爰に略す。(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による羽盡神社の由緒
羽盡神社(川口市芝五七七九-一)芝字宮根
当社の鎮座する芝は、「芝郷」の名で中世には既に開けた地であった。また当社神宝として伝えられる「秋草双雀鏡」(指定文化財)が、南北朝期の作とされることは、創建の古さを物語るものである。
この神鏡の鏡面には 「奉献神器/武蔵國足立郡芝阜社班/羽盡-此云波曾呂比-大明神乃羽/明玉神也縁起之書先年/遇池魚之殊予恐後人竟/失神号因録之如此而巳/維時/建武弐歳舎乙亥/春三月十五日/大仲臣實氏敬白」の銘文が刻まれている。
ただし、銘文にある「芝阜」の地名は戦国期から見えるものであることなどから、これは建武二年(一一三五)より後になって刻まれたものとされる。しかし、これにより、社名の羽盡を「はぞろい」と呼んでいたことや、祭神が羽明玉神であることを記している。なお、祭神については、羽明玉神とする説と天児屋根命と太王命の二座を祀るとする説が伝えられているが、不明な部分が多い。また、これを刻んだ大仲臣賓氏は、建武年中より江戸末期まで当社の神職を務めた関口氏の先祖の一人と思われ、初代は、元、香取神宮か鹿島神宮の神官で中臣氏の系統であったと伝えられている。
本殿は、江戸期に武蔵国一宮氷川神社から移築したと伝えられ、拝殿は、元治元年(一八六四)の再建とされる。平成元年四月、社殿の老朽化に伴い本殿の修理並びに拝殿と祝詞殿が新築された。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
羽盡神社の周辺図