密蔵院。武州川口七福神の大黒天、武蔵国八十八ヶ所霊場
密蔵院の概要
真言宗智山派寺院の密蔵院は、海壽山萬福寺と号します。密蔵院の創建年代等は不詳ながら、永海法印(明応2年1493年寂)が中興、開山したといいます。德川秀忠より寺領11石の御朱印状を拝領、近隣に数多くの末寺を擁していた中本寺格の寺院だったといいます。武州川口七福神の大黒天、武蔵国八十八ヶ所霊場87番です。
山号 | 海壽山 |
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院号 | 密蔵院 |
寺号 | 萬福寺 |
本尊 | 延命地蔵菩薩像 |
住所 | 川口市安行原2008 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | 密蔵院松雲閣 |
備考 | 武州川口七福神の大黒天 |
密蔵院の縁起
密蔵院の創建年代等は不詳ながら、永海法印(明応2年1493年寂)が中興、開山したといいます。德川秀忠より寺領11石の御朱印状を拝領、近隣に数多くの末寺を擁していた中本寺格の寺院だったといいます。
新編武蔵風土記稿による密蔵院の縁起
(原村)密蔵院
新義真言宗、山城國醍醐無量壽院の末、海壽山萬福寺と號す、寺領十一石は大猶院殿より賜はれり、開山の僧を永海と云、明應二年十月十六日寂す、本尊地蔵は慈覚大師の作なりと云。
撞鐘。鐘楼は近き頃丙丁の災にかかり再造ならず、故に假に材て立て寶永二年鋳造の鐘をかく。
氷川社。本地十一面観音を安す、村の鎮守にて別に供免を附す。(新編武蔵風土記稿より)
密蔵院栞による密蔵院の縁起
当山は、海寿山・満福寺・密蔵院と号し、その濫觴をもとむれば今を去る五百有余年の往昔、紀州出身の僧永海法印 嘉吉二年(一四四三年生)を以って中興開山となす。この永海法印は若年にして高野山に登り、その師を明王院住職永尊法印に求め出家得度。その後、明応元年(一四九二年)十月十六日、六十歳にして入寂されるまでの二十五年間、この地に留り道・学・実の研鉾と布教活動に専心し、当山の基礎を築かれる。
爾来、幾星霜、世に迂隆、時に盛衰あるも法燈連綿として今日に及び、現在三十三世を数える。この間、三たび山内伽藍を始め、寺宝、古文書、御朱印状等悉焼失し、再興不可能の感をもつも歴代住職よく努力せられて復興を計る。その後、明治十七年(一八八四年)島津家江戸屋敷の門を移築し山門とし、その境内地一万五千坪を有して近隣にその美を競う。
また、当山は、延命地蔵菩薩(総高二尺一寸五分、慈覚大師の作、平将門の念持仏の伝承をもつ、平安時代藤原期の作)を本尊となし、明治初期までは京都醍醐寺無量寿院の末として中本寺の寺格と御朱印十一石、並びに三十人力寺の末寺を有し、川口、草加、越谷、浦和、大宮の各地域寺院に影響力を有する川口市内有数の古刺である。然し乍らその後の時代の変遷と共に伽藍の損傷著しくも檀信徒と相計り、諸堂、諸施設、霊園等、山容の整備充実を計り今日に至る。これ偏えに本尊地蔵菩薩のご威光に依るものと雖も、檀信徒よく協力、喜捨を惜しまざる由縁にして、今日ある当山寺歴の一端にふれて草を起した次第である。(密蔵院栞より)
密蔵院の周辺図