法性寺。太田道灌が開基、村山伯耆守行秀中興大檀越
法性寺の概要
曹洞宗寺院の法性寺は、龍王山と号します。法性寺は、太田道灌が開基となり文明8年(1476)天台宗灌頂山保正寺と号して創建、明応7年(1498)雲龍(天文8年1539寂)が再建、明応8年(1499)季雲永嶽(大永5年寂)を請待して開山とし、雲龍は二世となったといいます。村山伯耆守行秀(保正寺定山存景大居士)が永正17年寺領を寄附して中興大檀越となり、天正19年(1591)には徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領していました。
山号 | 龍王山 |
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院号 | - |
寺号 | 法性寺 |
本尊 | 釈迦牟尼佛像 |
住所 | 川口市桜町1-11-51 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | 法性寺玉龍会館 |
備考 | - |
法性寺の縁起
法性寺は、太田道灌が開基となり文明8年(1476)天台宗灌頂山保正寺と号して創建、明応7年(1498)雲龍(天文8年1539寂)が再建、明応8年(1499)季雲永嶽(大永5年寂)を請待して開山とし、雲龍は二世となったといいます。村山伯耆守行秀(保正寺定山存景大居士)が永正17年寺領を寄附して中興大檀越となり、天正19年(1591)には徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領していました。
新編武蔵風土記稿による法性寺の縁起
(里村)法性寺
曹洞宗、遠江国榛原郡高尾村石雲院末。玉龍山と号す。寺領十石の御朱印は天正十九年に賜ふ。此時までは寺号を保正と書しが、御朱印に法性寺と記せしより、文字を改めしと云。本尊釈迦なり。又安阿弥の作る千手観音の立像長六寸許なるを安ず。相傳ふ文明八年太田道灌当寺を開基し、寺領等を寄附す。其頃は天台宗にて灌頂山保正寺と号せしが、後両上杉氏牟楯の時、住僧兵乱を懼れて遁れ去しかば、寺領を失ひ堂宇もことごとく荒廃せり。其後明応七年雲龍と云僧再建して禅室となし、玉龍山と改号し、同八年三月遠江国より季雲永嶽と云僧を請待して開山とし、雲龍は第二世に居れり。永正十七年村山伯耆守行秀寺領を寄附せしかば、行秀を中興大檀那とせり。開山永嶽は大永五年二月十五日寂し、雲龍は天文八年二月二日寂す。行秀は天文四年四月朔日卒しければ当寺に葬り、法謚を保正寺定山存景大居士と号す。此人は扇ヶ谷上杉定正の幕下にて、当郡戸田領の地を領せしと云傳ふ。村山氏は当国七薫の内にて、村山貫主、頼任、同七郎家継など称せし人あり。行秀はこれ等の後裔なるべし。多摩郡宮根ヶ崎村の民次郎右衛門が祖先を村山土佐守といひ、天正の頃北条家に仕へ、同郡山口領の内を領せりといへば、伯耆守は土佐守が一族なるも知るべからず。今村内に行秀が子孫といへる民二人あれど、世系を失ひて詳ならず。かの行秀が寄附せし寺領は、北条氏康の時没収せしが、天正二年に至りて氏直より一貫二百文の地を寄附せしことは、蔵する所の文書に見えたり。其文左の如し。(文中略)
鐘楼。享保年中鋳造の鐘をかく。
弁天社。愛宕社。衆寮。
地蔵堂。境内となり村に及べば、此堂のあたりは鳩ヶ谷宿の地に属すと云。(新編武蔵風土記稿より)
法性寺の周辺図