大行院。武州足立百不動尊霊場
大行院の概要
本山修験宗寺院の大行院は、天晴山と号します。大行院は、富山賢勝が弘安5年(1282年)に開山したと口碑に伝えられ、境内に薬師堂(後に不動堂)、飛地境内地に天王社を祀っていたといいます。明治維新後の神仏分離令により、天王社は飛地境内地と共に高木村に移管、明治5年台宗寺門派園城寺末となったが、戦後再び修験宗に復帰し、聖護院末としたといいます。武州足立百不動尊霊場84番です。
山号 | 天晴山 |
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院号 | 大行院 |
寺号 | - |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 川口市芝高木1-14-27 |
宗派 | 本山修験宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大行院の縁起
大行院は、富山賢勝が弘安5年(1282年)に開山したと口碑に伝えられ、境内に薬師堂(後に不動堂)、飛地境内地に天王社を祀っていたといいます。明治維新後の神仏分離令により、天王社は飛地境内地と共に高木村に移管、明治5年台宗寺門派園城寺末となったが、戦後再び修験宗に復帰し、聖護院末としたといいます。
新編武蔵風土記稿による大行院の縁起
(芝村)
該当記載なし(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉宗教名鑑」による大行院の縁起
大行院(修験宗)芝5677
天晴山と号す。
大行院は口碑によれば、弘安5年(1282年)富山賢勝の開山と伝えられている。
明治維新まで薬師堂と、天王社とがあった。薬師堂には慈覚大師の薬師如来及び神変大菩薩像を安置。天王社は飛地境内にあり牛頭天王を安置してあった。
承応年間(1652~55年)中興開山、第2世富山信賢法印が復興し、大行院の礎を築き、京都聖護院末修験道において、以後、代々富山家にて世襲してきた。
延享2年(1745年)、第3世隣章法印、薬師堂を再建、天蓋形格天井の薬師瑠璃殿を造営する。
宝暦8年(1758年)不動明王を薬師堂に安置し、本尊とし、薬師如来を安置佛とする。
安政2年(1855年)大震災により薬師堂大破。同4年第10世法印賢海がこれを修復する。
明治元年4月4日、太政官布告、神佛分離令により、天王社は飛地境内地と共に高木村に移管する。と共に本尊牛頭天王は大行院に移置した。
明治5年9月15日、修験宗廃止となり、天台宗寺門派園城寺末となったが、昭和20年、敗戦後宗教の自由により、再び修験宗に復帰、聖護院末寺となって今日に至っている。(「埼玉宗教名鑑」より)
大行院の周辺図