廣徳寺。比企郡川島町表にある真言宗豊山派寺院

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廣徳寺。美尾谷十郎廣徳開基、武州八十八所霊場

廣徳寺の概要

真言宗豊山派寺院の廣徳寺は、大御山西福院と号します。廣徳寺は、大同年間(806-810)の創建と伝えられ、その後北條政子が、源頼朝に仕えていた美尾谷十郎廣徳の菩提を弔うために大御堂・本堂など坊舎を再建、美尾谷十郎廣徳より廣徳寺と号しています。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領5石の御朱印状を受領、江戸期には末寺26ヶ寺を擁する本山格の寺院でした。慶安元年(1648)には美尾谷家の子孫にあたる鈴木三右衛門が御影堂を寄進しています。武州八十八所霊場47番です。

廣徳寺大御堂
廣徳寺の概要
山号 大御山
院号 西福院
寺号 廣徳寺
本尊 薬師如来像
住所 比企郡川島町表76
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



廣徳寺の縁起

廣徳寺は、大同年間(806-810)の創建と伝えられ、その後北條政子が、源頼朝に仕えていた美尾谷十郎廣徳の菩提を弔うために大御堂・本堂など坊舎を再建、美尾谷十郎廣徳より廣徳寺と号しています。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領5石の御朱印状を受領、江戸期には末寺26ヶ寺を擁する本山格の寺院でした。慶安元年(1648)には美尾谷家の子孫にあたる鈴木三右衛門が御影堂を寄進しています。

新編武蔵風土記稿による廣徳寺の縁起

(表村)
廣徳寺
大御山西福院と號す、新義眞言宗、二十六ヶ寺の本山にて、江戸大塚護持院の末山也、古は三河國誕生院の末なりしが、元禄の頃今の如く本山をかへしと云、天正十九年寺領五石の御朱印を賜へり、相傳ふ當山は水尾谷四郎廣徳が開基なりと、廣徳が法謚を勇鋒殘夢居士と號す、開山の僧名を傳へず、中興開山宥範應永六年寂す、本尊五大明王弘法大師の作也、
大御堂。此堂は大同年中造立せし所なりと云、されば水尾谷が、當山を開きし前より、道場はありしと見ゆ、然れども密宗の祖弘法大師大同中の人なるを以て末流の寺院やゝもすれば大同と稱するは常なり、とかく古き堂なることは疑ふべからず、大御堂と云こといづれ故あるべし、本尊三尊の彌陀定朝の作なりと云、ときはこれも大同より遥の後のものなるべし、
水尾谷四郎墓。大御堂の背後に高一丈、はゝり十間程の塚あり、石塔などもなし、是源平戰争のとき源氏に屬して、惡七兵衛景清と勇を争ひし、水尾谷四郎が墓なりと云、此人著名にて犬うつ童もしれど、【平家物語】に武蔵國の十人水尾谷十郎。同四郎と並べ記して、此事實は十郎がことゝなせり、されば寺傳は全く俗説に從ひたるものと見ゆれど、その誤りしも古きことにや、謡曲八嶋の内に、水尾谷四郎が景清とかけ合たる由見えたり、又【東鑑】文治五年七月奥州征伐の供奉の列に、十郎が名は載たれど、その他の事實を記さざれば、とかく考るに由なし、羅山詩集に、水尾谷四郎舊跡の詩あり、題下云、此處有小祠、世傳水尾野谷四郎舊跡也、其詩に云、刀劔忽摧心欲迷、此人力與景清斎、一頸一腕角相觸、兩箇闘牛元是泥、又土人の説に、いつの頃か塚中より古鏡・古鈴等を得しとて、今寺二収む鏡は圓徑四寸四分裏面に鳳凰の形に似たる模様あり、別に文字もなければ、年代考ふべきことなけれど、古物なることは論なし、古鈴は満面錆やつれて、緑色塗抹せしごとし數すべて五あり、その形上の如し、
鐘樓。鐘は正徳五年に鑄し所なり、
仁王門(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による廣徳寺の縁起

廣徳寺並大御堂
當寺は大御山西福院と号し、新義真言宗豊山派に属している。古くは三河國誕生院末であったが、元禄時代に江戸大塚の護持院末となり、更に護國寺末となった。
寺傳を見るに當寺は正保・享保の両度の火災に罹り大御堂、仁王門を除き本堂及び坊舎は盡く灰燼に歸し往古の諸記録は傳わらないが、隅々當時の災厄に遭遇した住僧舜韶が先師以前の記録の一端書を遺し後日を補充したのである。その記によれば當寺は平城天皇の御代大同年間の創立にして鎌倉時代に至り漸く衰毀の傾向を来した頃當郷を食邑した頼朝の驍将美尾屋十郎廣徳の菩提所なるを以って夫人二位の尼公が主となり大御堂及び本堂、坊舎の数棟を再建せられ廣徳寺と稱して、廣徳の冥福を祈ったのである。
その後天正十九年家康が當地方に放鷹の途次大御堂の縁故を問われ、爲に寺領五石の御朱印を下附され永く祭酋とし給うと言う。
大御堂は
建立年代明らかでないが室町時代初期に上り得るものがあり比較的数尠い関東地方に於ける唐様佛堂遺構として重要であるとの理由で昭和十三年七月四日當時の國寶、現在の重要文化財に指定された。
内陣には中央須弥壇上に本尊阿彌陀如来坐像を中心に右觀世音菩薩、左勢至菩薩の立像を安置し後方左右の隅に小壇を設け不動明王毘沙門天の立像が安置されている。
この大御堂の構造形式内陣の彫刻については「廣徳寺要録」中に文化財保護委員藤島亥治郎博士、文部技官水野敬三郎先生の詳細な解説が記録されている。(境内掲示より)

境内掲示による御影堂の縁起

御影堂の由来
この御影堂は江戸時代初期の慶安元戊子年(一六四八年)に江戸日本橋伊勢町の元祖鈴木三右衛門が願主となり牛ヶ谷戸出身の両親および弟図書の追善供養と自分たち夫婦の後世安楽を願って鈴木一家代々の菩提所であり墓所のある由緒深い廣徳寺の境内に建立寄進したものである。
建物は三間四面で桧材を用い萱葺の入母屋造である。堂内に、弘法・興教両大師尊影二体と中央に薬師如来立像が安置してあり弘法大師尊影一体、三右衛門の両親御影二体弟図書の御影一体自分夫婦二体つごう六体を奉納安置し苹鬘十二枚を寄進した。
その後年を経て影像の損傷が見られるに及び時あたかも三右衛門の五十年遠忌に当る享保七壬寅年(一七二二年)孝孫三代目三右衛門が大師像一体先祖像五体つごう六体を修補再興し同年十月十三日開眼供養の儀式を執行したのである。
以来二百六十年余の星霜を経過しこの間明治十六年宗祖弘法大師の一千五十年遠忌にさいし堂宇尊影の修復がなされているが昨今堂の建物は朽ち堂内安置の尊影は色あせいたみを生じたため昭和五十九年(一九八四年)十月弘法大師一千五十年遠忌にちなみ堂宇の大修理を行うと共に東京都曾孫鈴木仙造氏施主となり尊影の修復を行い昭和六十一年五月開眼法要を営み仏の冥福を祈った。
「仰々鈴木家トハ源義経ノ重臣鈴木三郎重家ガ主・義経ガ兄頼朝トノ仲ガ不和トナリ奥州平泉ヘ逃レシタメ義経追慕ノタメ熊野ヲイデテ田木ノ吉田(現東松山市)ニ至リシニ大雨ノタメ河川氾濫シ川ヲ渡ルコトガデキズコノ地ニ逗留シ一子ヲ儲シガモトヨリ死ヲ期シテノ奥州ヘノ旅路ニツキ子供ヲ連テ出立デキズ重家困惑シ友人デアル美尾谷(屋)十郎廣徳ト語イテ廣徳ニハ子ガナク其ノ子ヲ哀レニ思ヒ養子トナシ美尾谷ノ姓ヲ継ガシメタト傳ヘラレル然シ乍ラ其ノ子孫ハ三代マデ美尾谷ノ姓ヲ継承セシガ元来鈴木氏ノ子孫デアルノデ四代目ヨリ元ノ鈴木ノ姓ニ改メッタトイウ」(雨夜物語)ヨリ
これにより廣徳寺の大檀那美尾谷(屋)の姓はきえ鈴木氏の姓が現存するのである。(境内掲示より)


廣徳寺所蔵の文化財

  • 廣徳寺大御堂(国指定重要文化財)

廣徳寺大御堂

廣徳寺大御堂は、鎌倉時代の初め、北条政子が美尾谷十郎廣徳の冥福を祈って、本堂及び坊舎ともに建立したものと伝えられている。
現存の大御堂は様式手法から、前代の建物の規模や形式を踏襲して室町時代後期に再建したものとみなされる。
構造及び形式
桁行三間、梁間三間、一重寄棟造、茅葺
頭貫、木鼻の絵様繰形等に地方的な特色を見せる。関東地方には数少ない禅宗様の仏堂として貴重な遺構である。
昭和十三年七月四日付で国宝保存法による指定を受けその後、昭和二十五年八月二十九日付で文化財保護法により国の重要文化財となり、今日に至っている。
大御堂内には、現在中央須弥壇上に本尊阿弥陀如来坐像を中央に観音、勢至菩薩立像の両脇侍を安置し、さらに堂内の東北及び西北隅には小壇を設け、不動明王、毘沙門天の各立像を安置している。(埼玉県教育委員会・川島町教育委員会・廣徳寺掲示より)

廣徳寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉宗教名鑑」