無着山龍蔵寺。鬼島に棲息していた白龍を教蔵慈智上人が退治
龍蔵寺の概要
浄土宗寺院の龍蔵寺は、無着山龍光院と号します。龍蔵寺は、当地周辺が複数の河川よりに洲島状となっていた文和年間(1352)、布教に訪れた教蔵慈智上人(明徳元年1390年寂)が、鬼島に棲息していた怪物(白龍)を退治、白龍の「龍」と教蔵の「蔵」をとって「龍蔵寺」と名付けて、文和4年(1355)白龍の首のあった当地に創建したといいます。江戸期には寺領22石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領しています。当寺本尊の阿弥陀如来像は埼玉県有形文化財に指定されている他、龍蔵寺本堂・歴代将軍からの御朱印状は加須市有形文化財に指定されています。
山号 | 無着山 |
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院号 | 龍光院 |
寺号 | 龍蔵寺 |
本尊 | 阿弥陀如来立像 |
住所 | 加須市大門町18-51 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
龍蔵寺の縁起
龍蔵寺は、当地周辺が複数の河川よりに洲島状となっていた文和年間(1352)、布教に訪れた教蔵慈智上人(明徳元年1390年寂)が、鬼島に棲息していた怪物(白龍)を退治、白龍の「龍」と教蔵の「蔵」をとって「龍蔵寺」と名付けて、文和4年(1355)白龍の首のあった当地に創建したといいます。江戸期には寺領22石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領しています。
新編武蔵風土記稿による龍蔵寺の縁起
(三俣村)
龍蔵寺
浄土宗、京都知恩院の末、無着山龍光院と號す、元は佛眼山と號せし由、寺領二十二石は慶安二年八月賜へり、本尊阿彌陀は立像四尺餘、慈覺大師の作なり、當寺は文和四年の草創にして、開山教蔵上人明徳元年正月二日寂す、この教蔵は浄土傳燈總系譜教蔵慈智翁となす、是なり
鐘樓。正徳五年の銘を鐘にえれり(新編武蔵風土記稿より)
「加須市の神社・寺院」による龍蔵寺の縁起
文政九年(一八二六)七月にまとめられた当寺の縁起文によれば、その創建の経緯が次のように記されている。
文和年間(一三五二)、当地方一帯は未開拓の荒野で草木は生え繁り、加えて埼玉郡川俣(現羽生市川俣)附近より利根川本流が南下していた。そして川の流れは幾筋かに分かれ、当地では鬼島、明智島等の州島が作られていた。鬼島の大きさは東西二百余間、南北七十間あり、明智島はその百五十間下流にあって、大きさは鬼島の半分ほどであった。このため、この付近では、流れが三又(三俣)状になっていた。
時に布教途上にあった教蔵上人が、この三又の渡しまで来た時、舟人から鬼島に棲息する怪物のために人々が大変苦悩していることを聞いた。そこで上人は、これら多くの人々の苦悩を救おうと考えてその島へ渡り、柴の庵を結び、称名七日間の念仏に及んだ。するとある夜中、一人の女人が来て「十念を授けてほしい」と願い出てきた。これを怪しんだ上人が「何者か」と聞き返すと、「自分はこの島に棲む白龍です」と答えた。そして話の一部始終を聞いた上人が願いを聞きとどけ、十念を授けようとした瞬間、女人は忽然として百丈もの大白龍となった。そしてその白龍は、七曲りに身をくねらせて天を徘徊していたが、十念が授け終るやその姿は全く消えてなくなった。以後、人々は怪物に悩まされなくなったという。そして、白龍の首のあった地に一寺を建立し、白龍の「龍」と教蔵の「蔵」をとって「龍蔵寺」と名付けたという。また、龍尾のあったところに弁財天を勧請し、龍頭龍尾のあった所に各々銀杏を植樹したといわれている。時に、文和四年(一三五五)三月のことであった。教蔵上人は明徳元年(一三九〇)一月二日の入寂と伝えられている。
その後、第十三世幡譽上人代の慶安二年(一六四九)十月、徳川三代将軍家光より寺領二十二石並びに、山林・竹木諸役免除の永代御朱印を賜わった。以降、第十四代家茂まで、歴代各将軍の朱印状九通が所蔵されている(市指定有形文化財)。
本尊の阿弥陀如来立像は永仁元年(一二九三)慈覚大師の作と伝えられ、唯信の勧進である。昭和十二年(一九三七)十月重要美術品として国の指定を受け、同三十九年三月県文化財の指定を受けた。
天和元年(一六八一)七月十日火災にかかり、堂宇什物、寺宝を焼失した。さらに文政六年(一八二三)一月にも火災にかかっている。現本堂は埼玉郡本川俣村(現羽生市本川俣)の工匠三村正利の作に成る建築で、天保六年(一八三五)の落慶である。山門は仁王像を安置した楼門造りで、明治初年の寺院整理によって廃寺となった上羽生村(現羽生市)の大聖院にあったものを、買い取り移築したものである。
明治三年(一八七〇)には、朱印地が上地となり、翌四年には、山林も引裂のうえ上地となっている。また、淡島堂の本尊仏は淡島観音菩薩で、婦女子の守り仏である。天保三年の造立であるが縁起などは明らかでない。毎年三月八日に針供養を行っている。
墓地内には「妙法蓮華経」の文字を刻んだ宝篋印塔がある。一説によれば、江戸の振袖火事で有名な八百屋お七の墓(供養塔カ)と伝えられている。江戸幕府瓦解の際に、鈴ケ森刑場より故あって移築されたとのことである。(「加須市の神社・寺院」より)
龍蔵寺所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来立像(埼玉県指定有形文化財)
- 龍蔵寺本堂(加須市指定有形文化財)
- 龍蔵寺御朱印状(加須市指定有形文化財)
- 龍蔵寺の大いちょう(加須市指定文化財)
木造阿弥陀如来立像
この阿弥陀如来立像は像高一メートルの寄木造り、螺髪(仏像の頭髪)で玉眼入り・来迎印を結び鎌倉時代の在銘仏で、昭和一二年二四日重要美術品として国の認定をうけた。
像内背部に、永仁元(一二九三)年癸巳一一月二八日の墨色銘があり、胸部には、「奉造立阿弥陀如来一体、大勧進性信上人御門弟別当唯進、仏師武州慈恩寺大進、画匠上野国江田明信、画工上野国板倉信証」とあるように、親鸞上人の直弟子性信上人の門弟が勧進したものである。また仏師は南埼玉郡慈恩寺村(現さいたま市岩槻区)、画工は群馬県板倉町にいたことがわかる。
巳年の一一月二八日は、親鸞上人の命日であることから浄土真宗に関係のあったことがわかる。(加須市教育委員会掲示より)
龍蔵寺本堂
龍蔵寺本堂は、天保六(一八三五)年の建築である。桁行七間、梁間六間、入母屋造瓦葺である。天保六(一八三五)年から九年間の歳月をかけて完成した。床面積は、三三〇平方メートルと加須市内における江戸時代の数少ない大規模な木造寺社建造物のひとつである。堂内内陣の天井には、見事な龍と天女の絵が描かれている。また、外陣には仏師高村東雲による天蓋が配されている。
設計。建築は、羽生市川俣の三村正利であり、三村家は羽生で代々宮大工を受け継いできた家で、初代三村吉左衛門経治から数えて正利は七代目にあたる。文化元(一八〇四)年に生まれ、明治二五(一八九二)年に八八歳でなくなるまで数多くの社寺建築に携わった。主な建築物としては市内不動岡の總願寺不動堂(加須市指定文化財)、群馬県板倉町の雷電神社本社(群馬県指定文化財)が知られている。歴代名匠の家柄で当寺北埼玉郡内の神社・仏閣を数多く建築した。(加須市教育委員会掲示より)
龍蔵寺御朱印状
御朱印状とは、江戸幕府の将軍から神社・寺院が免税の土地等を与えられたことを証する御墨付で、この書状に将軍の朱の印が用いられているところから、その名がある。将軍は朱の印を用い尊ばれ、将軍以外は絶対に朱印は使用できず大名といえども墨印を用いていた。龍蔵寺には慶安二年(一六四九)一〇月一七日、三代将軍家光の御朱印状から代々あり、一四代将軍家茂までのすなわち慶安・貞享・享保・延享・宝暦・天明・天保・安政・万延年間の九通がある。この中、慶安二年のものをあげると、
武蔵国埼玉郡三保村龍蔵寺領
同所之内弐拾弐石余事任先規寄附之訖
全可収納並寺中山林竹木諸役等
免許如有来永不可有違者也依如件
慶安二年十月十七日
と記されている。(加須市教育委員会掲示より)
龍蔵寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「加須市の神社・寺院」