崇亀山大英寺。騎西城主松平周防守康重が創建
大英寺の概要
浄土宗寺院の大英寺は、崇亀山松応院と号します。大英寺は、徳川家康の関東入国後、騎西城主となった松平周防守康重が天正18年(1590)亡父の菩提を弔うため寺領30石を寄進して創建、團蓮社満譽玄道が開山したといいます。その後松平周防守康重の願いもあり、寛永19年(1642)には寺領30石は、幕府からの御朱印状に書き換えられています。明治維新後、騎西高等小学校がが明治20年設置され、又昭和7年には私立騎西保育園も開設されていました。
山号 | 崇亀山 |
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院号 | 松応院 |
寺号 | 大英寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 加須市騎西1404-6 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大英寺の縁起
大英寺は、徳川家康の関東入国後、騎西城主となった松平周防守康重が天正18年(1590)亡父の菩提を弔うため寺領30石を寄進して創建、團蓮社満譽玄道が開山したといいます。その後松平周防守康重の願いもあり、寛永19年(1642)には寺領30石は、幕府からの御朱印状に書き換えられています。明治維新後、騎西高等小学校がが明治20年設置され、又昭和7年には私立騎西保育園も開設されていました。
新編武蔵風土記稿による大英寺の縁起
(騎西町場)
大英寺
浄土宗、加倉村浄國寺の末、祟龜山松應院と號す、當寺は天正十八年松平周防守根古屋城を賜ひ、居城せし頃、寺領三十石を寄附して建立し、團蓮社満譽玄道をもて開山とせり、玄道移轉の後、本山第二世無月は、兼てより周防守深く歸依せし僧なれば、當寺へ請待して二世となし、再び二十石を増加し、後周防守常陸國笠間へ移りし時、そこへも一寺を草創し、彼無月をもて開山となし、當寺五十石の内二十石を彼の寺へ分て寄附せり、無月は寛永三年十月廿九日示寂、後周防守聞えあげて、同き十九年三十石の地を御朱印に願ひ替しと云、本尊阿彌陀は惠心の作、當寺に小田原北條よりの寄附状と云ものあり、その状に
御所陣建立寺家彼敷地之事、松郷之内一町二段、寺幷郷之内六段、合壹町八段、分錢貮貫七百文之所、永代令寄附候、自然河越用所之時、寺家相應之儀可被走廻候状、如件、弘治二年四月晦日判 明蓮社
按に弘治は當寺いまだ開ざる前の年號にて、明蓮社と云は當寺の僧なりと云も傳へず、文中松郷寺井郷の名は、入間郡内の地名なれば、恐らくは彼郷寺院の内に傳るものならん、當寺へ傳ふえうゆえんは詳ならず、
鐘樓。鐘に寛延二年の銘あり
釋迦堂(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による大英寺の縁起
天正十九年(一五九一)、騎西城主松平康重が亡父の菩提を弔うために創建。崇亀山松応院と号し、満誉玄道を開山とする。本尊は阿弥陀如来。
当寺は、はじめ大秀寺と号したが、二代将軍徳川秀忠と秀の字が通じることから、英に改めたという。江戸時代、三十石の御朱印を賜り、関連の文書も残されている。
明治二十年には本堂を仮校舎とした騎西高等小学校が置かれ、大勢の生徒が勉学に励んだ。また、昭和七年には私設託児所としては町最初の、私立騎西保育園も開設されている。(加須市教育委員会掲示より)
大英寺所蔵の文化財
- 大英寺板碑(市指定有形文化財)
- 大英寺文書(市指定有形文化財)
- 元禄十年銘五如来丸彫坐像
大英寺板碑
板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた石製の供養塔である。この地方では、荒川上流(長瀞付近)でとれる緑泥片岩を材料としていることから”青石塔婆”ともよばれている。
大英寺板碑には、正嘉元年(一二五七)の阿弥陀三尊来迎画像板碑をはじめ、釈迦・阿弥陀の二尊を刻んだ二尊種子板碑など多くの板碑がある。画像板碑は、阿弥陀如来が観音・勢至菩薩を従えて、極楽浄土に迎える姿を描いたものである。
明日の命をも知れない戦乱の世の中、せめて死後の世界は極楽浄土へと願う人々が、こうした板碑を造立したのであろう。(加須市教育委員会掲示より)
大英寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿