龍宮寺。大室学校、忍領三十三所
龍宮寺の概要
真言宗智山派寺院の龍宮寺は、龍光山阿弥陀院と号します。龍宮寺は、当地の旧家大熊新左衛門長秀が出家し忠陽恕海(元和元年1615年寂)となり、大熊氏の親族が天正15年(1587)当寺を建立、忠陽恕海が開山したといいます。明治維新後は、明治6年より大室学校に供されていました。忍領三十三所28番です。
山号 | 龍光山 |
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院号 | 阿弥陀院 |
寺号 | 龍宮寺 |
本尊 | 阿弥陀如来座像 |
住所 | 加須市大室179 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
龍宮寺の縁起
龍宮寺は、当地の旧家大熊新左衛門長秀が出家し忠陽恕海(元和元年1615年寂)となり、大熊氏の親族が天正15年(1587)当寺を建立、忠陽恕海が開山したといいます。明治維新後は、明治6年より大室学校に供されていました。
新編武蔵風土記稿による龍宮寺の縁起
(大室村)
龍宮寺
新義眞言宗、根古屋村金剛院末、龍光山と號す、本尊阿彌陀行基の作にて、長一尺六分の坐像なり、開山忠陽元和八年二月十五日寂す、
鐘樓。寶暦年中鑄造の鐘をかく、
薬師堂(新編武蔵風土記稿より)
「加須市の神社・寺院」による龍宮寺の縁起
当寺の閉山は忠陽恕海といい、当地の旧家大熊民の出である。俗名を大熊新左衛門長秀といい、幼くして父を亡し伯父尊秀に養育された。長じて父の菩提を弔うため出家して仏門に入り、名を忠陽恕海と改めた。このため、大熊氏の親族は、天正十五年(一五八七)当寺を建立し、忠陽恕海をして開山としたといわれている。忠陽恕海は、元和元年(一六一五)二月十五日の入寂である。
中興開山は法印順慶といい、順慶代に、戦時中供出されて現在はない寛文十三年(一六七三)六月七日在銘の半鐘が造られた。順慶は当寺第十世にして、享保九年(一七二四)七月二十一日の入寂である。また、梵鐘は、第十四世法印順意代に江戸神田の住人西村和泉守藤原政時によって造られた。元文五年(一七四〇)在銘の名鐘であったが、これも戦時中の供出(昭和十七年十一月二十二日)で現在はない。
境内の仁王門は、第十六世法印順智代の宝暦二年(一七五二)四月二十九日、当地の大熊治右衛門、及び縁者の(北)辻村の大熊経右衛門が施主となって建立したものである。この仁王門は、その後文政四年(一八二一)五月、及び明治十七年(一八八四)九月にそれぞれ修復されている。また、現本堂は、第二十四世法印鑁了代の文久二年(一八六二)五月七日、新築落成したものである(「棟札」より判明)。その後、昭和三十九年(一九六四) 五月二十三日には本堂屋根を瓦葺に改修している。
本末の関係については根古屋村(現騎西町)の金剛院の末寺に属していた(『風土記』)が、明治二十七年十二月十日、同末寺を離れて本山京都智積院の直末となっている。明治五年の学制頒布の際は、大室・船越のニカ村が連合して設立した大室学校が、明治六年四月一日龍宮寺を仮用校舎として開校している。(「加須市の神社・寺院」より)
龍宮寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「加須市の神社・寺院」