宮内氷川神社。北本市宮内の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

宮内氷川神社。北本市宮内の神社

宮内氷川神社の概要

宮内氷川神社は、北本市宮内にある神社です。宮内氷川神社の創建年代等は不詳ながら、武蔵一宮の氷川神社の分霊を勧請し創建したといいます。当地を開発した大嶋氏への書状文面では、永禄8年(1565)の書状より「宮内村」と記載され、その後も開発を促す文面が届けられていることから、この頃の勧請を窺われます。江戸期には上宮内村・下宮内村の鎮守として祀られ、文政10年(1827)には「武蔵国三宮」の称号を贈られていたともいいます。明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、明治40年には、深井の氷川社、古市場稲荷社、常光別所の白山社、花ノ木の稲荷社などを合祀しています。

宮内氷川神社
宮内氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素戔嗚尊
相殿 -
境内社 厳島神社、稲荷神社、天神社
祭日 例祭10月15日
住所 北本市宮内4-135
備考 -



宮内氷川神社の由緒

宮内氷川神社の創建年代等は不詳ながら、武蔵一宮の氷川神社の分霊を勧請し創建したといいます。当地を開発した大嶋氏への書状文面では、永禄8年(1565)の書状より「宮内村」と記載され、その後も開発を促す文面が届けられていることから、この頃の勧請を窺われます。江戸期には上宮内村・下宮内村の鎮守として祀られ、文政10年(1827)には「武蔵国三宮」の称号を贈られていたともいいます。明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、明治40年には、深井の氷川社、古市場稲荷社、常光別所の白山社、花ノ木の稲荷社などを合祀しています。

「埼玉の神社」による宮内氷川神社の由緒

氷川神社<北本市宮内四-一三五(宮内字堤)>
口碑によれば、当社は武蔵一宮の氷川神社の分霊を勧請し、湧水池の辺りに創建したのが始まりで鎮座地の宮内の名も、当社の鎮座に由来するものであるという。勧請の時期は不詳であるが、永禄八年(一五六五)四月吉日に大嶋大炊助へ宛てた「河目資好賞状写」(武州文書)に当地の名が見えることから、創建はそれ以前にさかのぼるものと考えられる。大嶋氏は元々伊豆大島に居を構えていたが、永正・大永年間(一五〇四-二八)に小田原北条氏に従い武蔵国に移住し、領主として当地の開発に当たった。このことから当社は大嶋氏によって勧請され、見沼のほとりに祀られた一宮氷川神社に倣い、湧水池の辺りに創建されたのであろう。また、当社は一宮・二宮に次ぐ「武蔵三宮」であるとの伝承があり、創建の古さをうかがわせる。
江戸前期、当村は上・下に分村した。『風土記稿』上宮内村・下宮内村の項には「氷川社 下分にあり、下同じ、祭神は素盞嗚尊と云、本尊は十一面観音、社地のさまは古蹟とはみゆれど、その来由は詳に知れず 別当 大乗院 当山修験 小松原滝本坊配下 末社 稲荷社 簸ノ王子社 弁天社」とあり、当社は分村後も下村ばかりでなく、上村からも鎮守として崇敬を受けたきことがうかがえる。
明治初年に上・下村は合併し、再び宮内村となった。大乗院は神仏分離後に廃寺となり、当社は明治六年に村社に列した。(「埼玉の神社」より)

新編武蔵風土記稿による宮内氷川神社の由緒

(上宮内村・下宮内村附持添新田)
氷川社
下分にあり、下同じ、祭神は素戔嗚尊と云、本尊は十一面観音、社地のさまは古蹟とはみゆれど、その来由は詳に知れず、
別當大乗院。當山修験、小松原瀧本坊の配下、
末社。稲荷社、簸ノ王子社、辨天社(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による宮内氷川神社の由緒

宮内氷川神社
御由来
当社は、人皇十二代景行天皇の御子日本武尊東征の際、当地を武蔵、信濃平定の本営地と定めたことを記念し、大宮氷川の大神を勧請して建立されたものと説く。「宮内」の地名はここに始まるとも言われ、近郷の鎮守として神域は遠近に及んでいる。
かつては境内六千有余坪、一万坪余りの広大な社領を有し、古木また鬱蒼と茂り、荘厳を極めたようである。
「新編武蔵風土記稿」には本地は十一面観音、別当は当山派修験「小松原」瀧本坊配下大乗院と見え、江戸後半頃おおよその実情が知られる。
文政十年(一八二七)にはその由来の古さを認められ神祇管領長上家より「武蔵国三宮」の称号を贈られている。
その後当社は様々な変遷を経て明治六年村社に列せられ、同四十年には神社合祀の令により、深井の氷川社、古市場稲荷社、常光別所の白山社、花ノ木の稲荷社、他いくつかの無格社、末社を合祀し現在にいたる。(境内掲示より)


宮内氷川神社所蔵の文化財

  • 宮内氷川神社旧社殿(市指定建造物)

宮内氷川神社旧社殿

宮内氷川神社旧社殿の規模は、桁行一メートル三十六・五センチメートル、梁間一メートル二十三・五センチメートル、向拝の出丸十三・二センチメートル、一間社、流れ見世棚造り、厚板葺き、目板打ちである。
見世棚造り建築は、身舎からつき出した床が「みせ」の棚板のようになっている小規模な社殿様式で、「信貴山縁起」や「西行物語絵巻」等、中世の絵巻に見られ、神社本殿の発生の姿を示していると考えられている。
宮内氷川神社旧社殿は、市内に残されている数少ない見世棚造り建築の一つで、土台や柱の取替え等、修理が行われているが、板葺きのまま原形を保っており、建造時期は江戸時代初期に遡ると思われる歴史的価値の高い希少な建造物である。(北本市教育委員会・氷川神社掲示より)

宮内氷川神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)