石戸城跡。岩付城・松山城・河越城を結ぶ防衛線の一部
石戸城跡の概要
石戸城跡は、北本市石戸宿にある名所旧跡です。石戸城跡は、上杉氏の家人・藤田八右衛門が15世紀後半に築城したとされ、岩付城・松山城・河越城を結ぶ防衛線の一部を担っていたのではないかといいます。西側が荒川の低湿地、東側・北側に深田を控え、南面のみ平地から登った地にあり、北側から南へ五つの曲輪を配置していたようです。
旧跡・名所名 | 石戸城跡 |
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みどころ | 埼玉県選定遺跡 |
入場時間 | - |
入場料 | 無料 |
住所 | 北本市石戸宿6丁目 |
備考 | - |
石戸城跡の縁起
石戸城跡は、上杉氏の家人・藤田八右衛門が15世紀後半に築城したとされ、岩付城・松山城・河越城を結ぶ防衛線の一部を担っていたのではないかといいます。西側が荒川の低湿地、東側・北側に深田を控え、南面のみ平地から登った地にあり、北側から南へ五つの曲輪を配置していたようです。
境内掲示による石戸城跡について
埼玉県選定重要遺跡
石戸城跡
石戸城は別名「天神山城」ともいわれ、十五世紀後半頃に築かれたと考えられている。当時は戦国大名が覇権を争う群雄割拠の時代であった。城は上杉氏の家人・藤田八右衛門によって築城されたとされ、北上する北条氏の勢力に備えるため、岩付城から松山城、河越城を結ぶ防衛線の一部を担っていたと思われる。
永禄六年(一五六三)二月、北条・武田の連合軍が上杉方である松山城を包囲した際、雪の上越国境を越えて援軍に駆けつけてきた上杉輝虎(謙信)が、短期間ではあるが石戸城に逗留している。
その後は北条氏の支配を経て、徳川氏の関東入国以降、城としての役割を終えるようである。
現在では発掘調査などによって土塁や堀が良好に保存されていることが確認され、堅牢な城郭の姿が復元されつつある。(北本市教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による石戸城跡について
(石戸宿村)
城蹟
廣さ四町許、今は陸田となりて僅にから堀の跡殘れり、西は荒川を帶び、東より北へ頁りては深田にして、南の一方のみ平地に續けり、元禄十六年地頭牧野某檢して高入の地となれり、昔天神山の城と唱へ、扇谷上杉氏の家人八右衛門と云人居りし所なりといへり。(新編武蔵風土記稿より)
石戸城跡の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」