勝丸稲荷神社。猪俣氏の旗本だった勝丸仁左衛門が再興
勝丸稲荷神社の概要
勝丸稲荷神社は、児玉郡美里町根木にある稲荷神社です。勝丸稲荷神社の創建年代は不詳ですが、当地には愛宕社があり、戦の火矢がもとで根本の集落が全焼した際に火防の神として勧請した伝えられています。明治40年に字勝丸の村社稲荷神社・字紫渡川の無格社二柱神社・字根本の無格社八坂神社・字向居の無格社菅原神社の四社を合祀しています。合祀した稲荷神社は、当地の郷士で猪俣氏の旗本であった勝丸仁左衛門が天正18年(1590)稲荷神社の社殿を修理して再興したと伝えられ、当社名稲荷神社、通称勝丸稲荷神社と称すようになったといいます。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 軻遇突知命、倉稲魂命、瓊々杵命、木花咲耶姫命、須佐能男命、菅原道真公 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 祇園祭7月15日 |
住所 | 児玉郡美里町根木337 |
備考 | - |
勝丸稲荷神社の由緒
勝丸稲荷神社の創建年代は不詳ですが、当地には愛宕社があり、戦の火矢がもとで根本の集落が全焼した際に火防の神として勧請した伝えられています。明治40年に字勝丸の村社稲荷神社・字紫渡川の無格社二柱神社・字根本の無格社八坂神社・字向居の無格社菅原神社の四社を合祀しています。合祀した稲荷神社は、当地の郷士で猪俣氏の旗本であった勝丸仁左衛門が天正18年(1590)稲荷神社の社殿を修理して再興したと伝えられ、当社名稲荷神社、通称勝丸稲荷神社と称すようになったといいます。(天正18年は、豊臣秀吉が小田原北条氏を降して天下統一を果たした年です。)
新編武蔵風土記稿による勝丸稲荷神社の由緒
根木村
稲荷社、村持。(新編武蔵風土記稿より)
美里町史による勝丸稲荷神社の由緒
勝丸稲荷神社
大字根木にあり、倉稲魂命ほか五柱を祀る。創建の年代・由来は不詳であるが、伝えによると天正18年、当地の郷士で猪俣氏の旗本であった勝丸仁左衛門が稲荷神社の社殿を修理して再興したといわれ、勝丸稲荷大明神ともいう。(美里町史より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による勝丸稲荷神社の由緒
当社は、大字根本の集落南端にある「愛宕山」と称する小高い塚に鎮座している。県道本庄・寄居線からは、田畑の中に浮かぶように鎮守の杜が望まれる。
この鎮座地には、元々は無格社の愛宕神社が祀られていたが、明治40年に字勝丸の村社稲荷神社・字紫渡川の無格社二柱神社・字根本の無格社八坂神社・字向居の無格社菅原神社の四社を合祀の上、社号を勝丸稲荷神社と改めた。
愛宕神社は、口碑によれば、戦の火矢がもとで根本の集落が全焼した際に火防の神として勧請したという。「風土記稿」棍木村の項には「愛宕社 村の鎮守なり、積蔵寺持」とあり、更に積蔵院は「新義真言宗、栗埼村宥勝寺末、愛宕山地蔵院と号す、本尊地蔵を安ぜり」とあり、その山号から積蔵院の法印が当社の勧請にかかわった可能性が高い。ちなみに、積蔵院は神仏分離により廃寺となった。一方、社名の本になった稲荷神社は「児玉郡誌」に「当社創立年代は詳ならず、古老の口碑に天正18年(1590)当地の郷士猪俣党の旗下勝丸仁左衛門が稲荷明神の社殿を再興して、深く崇敬工たるを以て、後ち勝丸稲荷大明神と称すと云ふ」とあり、「風土記稿」には村持ちの「稲荷社」として載る。従って、明治初年の社格制定の際には、村の鎮守が愛宕神社から稲荷神社に交代したことになる。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」によるより)
勝丸稲荷神社の周辺図