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義民兵内供養塔。児玉郡美里町関にある旧跡・名所

義民兵内供養塔の概要

義民兵内供養塔は、児玉郡美里町関にある関観音堂にある、義民兵内の供養塔です。義民兵内は、関村の名主の家に享保10(1725)年生まれ、明和元(1764)年伝馬騒動の主導者となりました。伝馬騒動は、中山道の保守を負担する費用を巡って、使役の負担を嫌った中山道一円の村々による嘆願で、二十万人もの農民による騒動です。嘆願は受け入れられたものの、一部の農民が先鋭化し、村役人や高利貸の家を打ち壊したことから、主導者が処刑され兵内は獄門(さらし首)、首は3日間さらされたといいます。騒動の落ち着いた2年後の明和5年、関村で管理していた関観音堂に供養塔が建立されました。

義民兵内供養塔
義民兵内供養塔の概要
旧跡・名所名 義民兵内供養塔
住所 児玉郡美里町関273地先関観音堂境内
みどころ 旧跡
備考 -




義民兵内供養塔の縁起

義民兵内は、関村の名主の家に享保10(1725)年生まれ、明和元(1764)年伝馬騒動の主導者となりました。伝馬騒動は、中山道の保守を負担する費用を巡って、使役の負担を嫌った中山道一円の村々による嘆願で、二十万人もの農民による騒動です。嘆願は受け入れられたものの、一部の農民が先鋭化し、村役人や高利貸の家を打ち壊したことから、主導者が処刑され兵内は獄門(さらし首)、首は3日間さらされたといいます。騒動の落ち着いた2年後の明和5年、関村で管理していた関観音堂に供養塔が建立されました。

関観音堂境内石碑による毘沙門堂の縁起

義民兵内供養塔の由来
この宝筐印塔は十八世紀のなかば関の名主であった兵内の供養塔です。兵内は享保10(1725)年関に生れ家は代々名主を勤めていました。徳川十代将軍家冶の時代である明和元(1764)年に武蔵上野下野信濃四カ国の中山道を中心とした一帯に伝馬騒動という百姓一揆が起りました。騒動の起りは中山道を通行する人馬がふえて宝暦年間(1750)になるとそれ迄奉仕していた伝馬を勤める人を出す助郷の村数が不足するようになりこのため中山道宿々の問屋では裕福な村役人層を資金元にして助郷の範囲を拡げるよう幕府に運動すすめていました。幕府は折柄明和2年の春日光において東照宮家康の百五十回忌の法要が行われるのを理由に中山道日光道中筋の村々の調査を始め街道から十里四方の村々に助郷の指名をおこない高百石につき人足六人馬三疋、遠路の村々は金六両を負担するよう村々に命令しました。しかし宝暦のはじめ頃から水害が多く収穫が減って農民達は生活は困っており、又その頃新しい将軍にお祝いを述べに来た朝鮮人の接待費用として高百石につき、金3両1分2朱という従来に較べると非常に高い税金をやっと払ったすぐ後でしたのでいくら幕府の命でもひどすぎるという不満の声が高まりました。そして本庄宿の助郷である今の秩父児玉大里多野佐波新田の各郡の村々の農民一万八千余人が年の暮に十条河原に集まり相談の結果、幕府に助郷を拡げることを取止めて貰うよう一同で江戸迄押掛けて願い出ることにきまり、数日後出発して本庄から上野信濃方面の農民と一緒になって江戸に向って進んでゆきました。この知らせを受けた幕府は非常に驚き関東郡代伊奈半左衛門に取鎮めを命令し、伊奈は農民の願いを無条件で聞き届け、助郷を拡げることを中止しました。農民達は要求がとおると日頃自分達を苦しめ、この事件の資金元となっていた村役人や高利貸の家を方端から打ちこわしに赴き二十数軒を打ちこわして漸く治まりました。この騒動に参加した農民や約二十萬人といわれる多勢の人々でしたが、兵内はこの人達の信頼の下に先頭に立って活動しました。豊かな生活、明るい日々を送るために起ち上った農民達でしたが幕府がこの人々に下したのは兵内の獄門(さらし首)をはじめとして三百六十名余におよぶ重い刑でした。兵内はこの地で獄門の刑に処せられたのは明和3年2月13日42才の時です。兵内の死後2年目の明和5年には早くも騒動に参加した人々の手によってこの供養塔が建てられて今日までもまもられてきました。(関観音堂境内石碑より)

新編武蔵風土記稿による毘沙門堂の縁起

(関村)観音堂
村持。(新編武蔵風土記稿より)


義民兵内供養塔の周辺図


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