安光寺。坂上田村麻呂が尾埋壷山に創建
安光寺の概要
黄檗宗寺院の安光寺は、日光山と号します。安光寺の創建年代は不詳ですが、延暦年間(782-806)に征夷大将軍坂上田村麻呂が尾埋壷山(十条渕の大蛇を退治した時にその尾を埋めたと伝えられる所)に日光山安光寺を創建したと伝えられます。元文年間(1736-1741)に黄葉宗の僧翠岩が、荒廃した寺跡を嘆いて中興したといいます。
山号 | 日光山 |
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院号 | - |
寺号 | 安光寺 |
住所 | 児玉郡美里町古郡104 |
宗派 | 黄檗宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
安光寺の縁起
安光寺の創建年代は不詳ですが、延暦年間(782-806)に征夷大将軍坂上田村麻呂が尾埋壷山(十条渕の大蛇を退治した時にその尾を埋めたと伝えられる所)に日光山安光寺を創建したと伝えられます。元文年間(1736-1741)に黄葉宗の僧翠岩が、荒廃した寺跡を嘆いて中興したといいます。
美里町史による安光寺の縁起
安光寺
大字古郡にあり、日光山安光寺と号し京都宇治万福寺の末寺で黄葉宗。本尊は阿弥陀如来である。
宝暦元年(1751)に中興開山翠岩の書いた「安光寺記」によれば、当寺は延暦年間(782-806)に征夷大将軍坂上田村麻呂の創建になるといわれ、田村麻呂は尾埋壷山(十条渕の大蛇を退治した時にその尾を埋めたと伝えられる所)に日光山安光寺を建て、大己貴命を安置したことにはじまる。古くから何宗ということのない無本寺であったという。永禄年間(1558-1570)に火災にあい、すべてを失って荒廃した古跡となってしまったが、天正年間に鉢形城主北条安房守氏邦心願のわけあって尾埋壷山の麓の渋保沢のあたりに仮堂を建てて大己貴命を安置したとも伝えられる。
のち元文年間(1736-1741)に黄葉宗の僧翠岩は、荒廃した寺跡を嘆いて中興し寺号をひきついで古跡に講堂社を建て、駒ノ井(尾埋壷山中にあった泉)の下に子ノ大権現(大己貴命=大黒天)を安置し、黄葉宗の寺として開山第一祖となったという。当寺にある寛延元年(一七四八)の梵鐘は町指定の文化財である。(美里町史より)
新編武蔵風土記稿による安光寺の縁起
安光寺
黄檗派禅宗、山城国宇治萬福寺末、日光山と号す。開山僧翠岩宝暦3年寂すといへば、古き寺にはあらず。寛政3年故有て尼寺となせしより今も然り。本尊阿弥陀を安置す。
鐘楼、寛延元年の鐘を掛く。(新編武蔵風土記稿より)
安光寺所蔵の文化財
- 安光寺の梵鐘(美里町指定文化財)
安光寺の梵鐘
この梵鐘は、高さ1.35メートル、直径0.7メートル、内径0.55メートル、寛延元年(1758)というから、およそ230年前に作られたものである。
太平洋戦争中供出ということで、いったん寺前に運び出してみたが、何としても由緒ある鐘なので供出するにしのびず、当時の年譜、字や表が釘に刻された文字で写し、数度にわたって県庁に供出免除の陳情を行った結果、県庁もこの鐘の価値を認め供出を免除された。この梵鐘には日光山安光寺の由来と梵鐘をつくるに当って厄除祈祷した人々の名前が周囲一面細字で刻まれてあり、最後は次のとおり記されている。(美里町教育委員会掲示より)
安光寺の周辺図