大興寺。小倉左中将元英開基、児玉三十三霊場
大興寺の概要
臨済宗妙心寺派寺院の大興寺は、伏龍山と号します。天徳年間(957-961)に慶徳山大光禅寺として創建したと伝えられます。その後廃寺と同様の状態になっていたところ、名跡を惜しんだ小倉左中将元英(法名吉原院梅屋元英庵主)が開基となり、禅密兼学の陽嶽元照を小平成身院より招いて開山とし、嘉慶元年(1387)に臨済宗に改めた上で伏龍山大興寺と号したといいます。慶安2年(1649)には寺領10石の御朱印状を拝領、多くの塔頭・末寺を擁していました。児玉三十三霊場12番霊場です。
山号 | 伏龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 大興寺 |
住所 | 児玉郡美里町広木2618 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 釈迦牟尼仏 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 児玉三十三霊場12番霊場 |
大興寺の縁起
大興寺は、天徳年間(957-961)に慶徳山大光禅寺として創建したと伝えられます。その後廃寺と同様の状態になっていたところ、名跡を惜しんだ小倉左中将元英(法名吉原院梅屋元英庵主)が開基となり、禅密兼学の陽嶽元照を小平成身院より招いて開山とし、嘉慶元年(1387)に臨済宗に改めた上で伏龍山大興寺と号したといいます。慶安2年(1649)には寺領10石の御朱印状を拝領、多くの塔頭・末寺を擁していました。
埼玉県掲示による大興寺の縁起
当寺は、伏龍山大興寺といい、臨済宗妙心寺派に属している。本尊は釈迦如来で、児玉三十三霊場第12番になっている。
創立は天徳年間(957-961)と伝えられ、当初は慶徳山大光禅寺と称した。その後廃寺となり、ただ名だけが残っていたところを、小倉左中将元英という人が陽嶽元照を招いて嘉慶元年(1387)に再興し、寺名を大興と改めた。このため元照を開山とし、元英を開基としている。慶安2年(1649)には三代将軍家光より寺領10石の御朱印を賜っている。
当寺には、県指定文化財の元照和尚画像がある。絹本着色で縦97cm、横43cmあり、曲彔に坐った元照の法衣姿が綿密に描かれ、威厳のある禅僧の姿をよく保っている。彩色が剥落したところもあるが、南北朝時代のすぐれた肖像画として貴重なものである。(埼玉県掲示より)
新編武蔵風土記稿による大興寺の縁起
大興寺
禅宗臨済派。京都妙心寺末。本尊釈迦を安ず。寺領10石は慶安2年8月24日賜へり。当寺二世大愚が応永年中の記録を見るに、当寺は天徳の頃創立する所にして、慶徳山大光禅寺と号せしが、其後廃寺となり。只名のみ存せしを、小倉左中将元英と云る人、禅密兼学の僧陽嶽元照を請て嘉慶元年再興し、山を伏龍と号し、寺を大興と改む。よりて元照を開山と称す。応永元年3月13日示寂。左中将元英は貞和年中、故ありて京師を辞し、関東に下り当所に迹をかくし、村名小名吉原に居住し、永和2年3月13日卒す。法号吉原院梅屋元英庵主と云り、今この寺号を以て考れば、若くは城主大興寺入道草創の地にて、其法号を以て寺号とせしものならんか。されど住僧は前説を主として、彼城主の事は云も傳へざれば、是非弁じがたし。寺寶武田家よりの制札鉢形北条よりの文書、酒井与九郎よりの書付三通を蔵す。此余後小松帝綸旨及御寄附器物、且足利義満より出せし制札及諸記録等ありしが、天正2年8月26日強党乱入の為に失へり。只開山着せし袈裟及牛王一宮のみあり。(武田信玄朱印省略)
鐘楼。万冶4年再鋳の鐘なり。古鐘は応永の頃2世大愚の建立なりしが、天正2年失へり。
弁天社。稲荷社。山王社。天神社。大威徳天社、以上の社、境内鎮守とす。
十王堂、薬師堂。何れも廃して、未だ再興に及ばず。
塔頭。
慶徳庵。長享2年2月4世僧可渓造立せり。此庵号は当寺の昔の山号を襲ひ用ひしものなり。
嶺松庵。元禄6年3月の建立にして、今は廃せり。(新編武蔵風土記稿より)
大興寺所蔵の文化財
- 元照和尚画像(県指定有形文化財)
元照和尚画像
大興寺開山・陽嶽元照和尚の頂相(禅宗の肖像画)である。大興寺は、南北朝の頃、当地に隠棲していた京都の公家・小倉左中将元英朝臣が、かつての大光寺が廃寺となっていたのを歎き、自ら開基となり、秋平村の平等山成身院から元照和尚を開山として迎え、創建したと伝えられる。
寺伝によれば、嘉慶年間(1387-89)に関東地方が大旱魃にみまわれた。そこで元照和尚が雨乞いの祈願を行ったところ、法力によって三日間にわたり大雨が降ったという。また鎌倉公方足利氏満も元照和尚の高徳に帰依し、後小松天皇に奏聞し寺領を賜ったという名僧である。
この元照和尚画像は、生前の姿を描いた寿像と伝えられ、作者は不明ながら、南北朝期の禅僧の姿をしのばせている。(埼玉県教育委員会・美里町教育委員会掲示より)
大興寺の周辺図