大野神社。渡部仕が託宣により当氷川社を造営
大野神社の概要
大野神社は、鴻巣市大間にある神社です。大野神社は、天慶元年(938)に、嵯峨天皇末流の渡部仕が大己貴命の託宣によって当地に氷川社を造営したといいます。江戸期には大間村の鎮守社として祀られ、明治6年村社に列格、明治40年大間地内の無格社「天満社、浅間社、稲荷社、諏訪社」を合祀、大間の(大)と中野の(野)より大野神社と改めたといいます。
社号 | 大野神社 |
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祭神 | 須佐之男命、大國主命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 例大祭10月14日 |
住所 | 鴻巣市大間2-11-29 |
備考 | - |
大野神社の由緒
大野神社は、天慶元年(938)に、嵯峨天皇末流の渡部仕が大己貴命の託宣によって当地に氷川社を造営したといいます。江戸期には大間村の鎮守社として祀られ、明治6年村社に列格、明治40年大間地内の無格社「天満社、浅間社、稲荷社、諏訪社」を合祀、大間の(大)と中野の(野)より大野神社と改めたといいます。
新編武蔵風土記稿による大野神社の由緒
(大間村)
氷川社
村の鎮守なり。別当を本習院と云。本山修験、下谷村大行院の配下なり。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による大野神社の由緒
大野神社<鴻巣市大間三一二(大間字根際)>
『風土記稿』大間村の項に「氷川社 村の鎮守なり、別当を本習院と云(以下略)」と載るように、当社は元来は氷川神社と称していた。それを大野神社と改称したのは、明治四十年七月十八日のことで、同日に大字北中野字津門の村社津門社を合祀したことに伴うものであった。この氷川神社の由緒については、別当本習院の後裔で、神仏分離後は復飾して神職に転じた吉田家が所蔵する社記「大間氷川大明神縁起」に詳しく、その要点をまとめると次のようになる。
当社は、天慶元年(九三八)に、嵯峨天皇の末流の渡部仕が大己貴命の託宣によってこの地に社を造営したことに始まるもので、長元三年(一〇三〇)には源頼義が平忠常の謀反を鎮めるために戦いを何度も挑んだが勝利を得られなかったため、当社に獅子頭を掛けて願成ることを祈ったという。また、神力によって、天永元年(一一一〇)に沼(現在の逆川)に沈んでいた阿弥陀像を引き揚げ、正嘉年中(一二五七-五九)の干ばつには雨を降らせ、延元二年(一三三七)には疫病を退散させるなど霊験あらたかであったが戦乱によって荒廃した。
社記の記述はここまでであるが、その後、村の再興と共に神社も再建されたようであり、『明細帳』には天保年中(一八三〇-四四)及び明治十一年に再建され、明治六年に村社になった旨が記されている。更に、平成五年には社殿が老朽化したため、再建が行われた。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
境内掲示による大野神社の由緒
大野神社記
当社は元来氷川神社で祭神は須佐之男命・大國主命(大巳貴命)の二神でありました。
第六十一代朱雀天皇(九二三~九五二)の御宇天慶元年正月箕田源氏の祖と傳えられる源の仕が造立した宮であります。
鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました。
当時は梅本坊別当後本習院となり慶安五年(一六五二年)、享保六年(一七二一年)、天保九年(一八三八年)と社殿の改修が行われたと伝えられております。
明治六年四月村社、明治八年拝殿建立、明治三十七年九月五日境内(現二千五百坪)が社地となりました。
明治四十年五月八日大間地内の無格社「天満社、浅間社、稲荷社、諏訪社」を合祀、大間の(大)と中野の(野)をとって大野神社と社名を定め、明治四十一年四月記念の合祀祭が行われました。
明治四十四年一月七日神饌幣帛供進社に指定。
平成五年九月拝殿改築奥宮修繕 完。
大野神社古記(境内掲示より)より)
大野神社の周辺図