宝蔵院地蔵寺。徳川家康の長女亀姫・加納御前像を所蔵
宝蔵院の概要
真言宗豊山派寺院の宝蔵院は、愛宕山地蔵寺と号します。宝蔵院の創建年代等は不詳ながら、久安年中(1146-49)の創建と伝えられ、慶長15年(1610)覚儀法師が真言宗宝蔵院として開山したといいます。当寺所蔵の奥平信昌に嫁いだ加納御前(徳川家康の長女亀姫)像、及び宝治二年板碑は鴻巣市有形文化財に指定されています。
山号 | 愛宕山 |
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院号 | 宝蔵院 |
寺号 | 地蔵寺 |
本尊 | 延命地蔵像 |
住所 | 鴻巣市鎌塚326 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宝蔵院の縁起
宝蔵院の創建年代等は不詳ながら、久安年中(1146-49)の創建と伝えられ、慶長15年(1610)覚儀法師が真言宗宝蔵院として開山したといいます。
境内石碑による宝蔵院の縁起
宝蔵院(真言宗豊山派)は、本尊を延命地蔵菩薩とし、創建は久安年中(1146-49)と伝えられ、慶長15年覚儀法師により創建したものです。徳川時代には、忍城主の祈願所となっていたと伝わる○○き寺院でありました。
堂宇は、文政2年(1819)建立で、爾来幾多の修理を経ましたが、老朽甚だしく、檀徒の賛同を得、又時あたかも、興教大師八百五十年遠忌を迎へ慶賛事業に詣業、昭和61年改築を決定、平成4年十○○2日上棟式・同5年(1953)12月11日本尊還座・同6年5○○日落慶となりました。
ここに、檀徒の浄行を後世に永く伝えるものであります。(境内石碑より)
新編武蔵風土記稿による宝蔵院の縁起
寶蔵院
同宗(新義真言宗)、持田村寶蔵寺末、愛宕山地蔵寺と号す。本尊延命地蔵。(新編武蔵風土記稿より)
「吹上町史」による宝蔵院の縁起
宝蔵院
鎌塚の中寺で、吹上バイパス北側、宝積院の西にあり、新義真言宗豊山派持田村(現行田市)宝蔵寺の末寺で、愛宕山地蔵寺と号している。創建は未詳となっているが、村人の伝えは仁治中(一二四〇~四三)あるいは宝治中(一二四七~四九)であるという。本尊が延命地蔵で、宝治の宝と、地蔵の蔵をとって宝蔵院と称したのだという。開基が誰で開山が誰かも明らかではない。この寺も一時衰微したが、慶長十五年(一六一〇)覚儀法印が中興したという。覚儀法印は、四七年後の明暦三年(一六五七)中興の祖としての活躍の生涯を閉じている。
本尊は、延命地蔵尊立像で、木造、寄木造、漆箔、玉眼、彩色、像高四七・八センチ、江戸末期の作となっている。
本院には、天正元年(一五七三)九月、織田信長の取もちで若き青年城主奥平信昌に嫁した、徳川家康の長女加納姫の立像があるが、そのゆかりは明らかでない。寺院調査報告書によると、木造、寄木造、彩色で、像高一八・六センチ、徳川家定紋付木瓜型厨子に納められているが、左手が惜しくも欠損している。吹上町の文化財に指定されている。
境内の板碑も、『下忍村史』によると、宝治二年(一二四八)及び貞和か貞治(村史に貞昭五年とあるが、貞昭の年号なし)何れにしても十四世紀中ごろと、二枚が確認されているが、現在は宝治二年のもの一基のみとなり、完形ではないが文化財指定を受け、本堂内に保管されている。なお最近(昭和五十三年)の調査によると、本堂前方の墓地から、造立年は不明だが、二基の板碑が発見されている。(「吹上町史」より)
宝蔵院所蔵の文化財
- 伝加納姫木像(鴻巣市指定有形文化財)
- 宝治二年板碑(鴻巣市指定有形考古資料)
伝加納姫木像
この加納姫木像は、徳川家康の長女亀姫を写したものといわれている。
徳川家葵定紋を附した厨子の中に収められ、御守殿風藤松模様の内掛け姿でにこやかに敷台に立っている。
亀姫は、天正三年(一五七五)に一六歳の時に織田信長の仲立ちで三河の有力な武士団を率いる奥平信昌に嫁いだ。
信昌は長篠の合戦で功を挙げ、美濃加納城(十万石)の城主となった。このため亀姫は加納姫または加納御前と呼ばれた。
後の大坂城主松平忠明は彼女の四男で、その子孫は後年忍城主となってこの地方の民政につくした。
なお、加納姫木像がどのような経緯で宝蔵院の所蔵になったかは明らかではない。(鴻巣市教育委員会掲示より)
宝治二年板碑
板碑は、死者の成仏や自らの死後の極楽往生を願って造られた板状石の供養塔で、鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造立された。
秩父産の緑泥片岩(秩父青石)が主に用いられたことから青石塔婆、形状が板状であることから板石塔婆とも呼ばれる。埼玉県は、全国でもっとも板碑が多く、約二万七千基あるといわれている。
この板碑は、宝治二年(一二四八)銘で中央に胎蔵界大日如来の種子(主尊)を彫り、その下部に紀年を刻んでいる。古式の作風は、力強く雄渾である。(鴻巣市教育委員会掲示より)
宝蔵院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「吹上町史」