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上谷薬師堂。上谷を開発した立川石見守所縁

上谷薬師堂の概要

真言宗智山派寺院の上谷薬師堂は、鴻巣市上谷にある薬師堂です。上谷薬師堂は、立川石見守の三代孫立川勘兵衛(元和5年1619年)の位牌が残されていたことから、立川勘兵衛を開基として創建したのではないかと思われます。当地には、明治初年廃寺となった宝性院がかつてあり、宝性院は上谷を開発した立川石見守が開基した寺院で、当地には立川家以外の墓地がないといいます。薬師堂の算額は、鴻巣市有形文化財に指定されています。

上谷薬師堂
上谷薬師堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 薬師堂
本尊 観音像
住所 鴻巣市上谷1941
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



上谷薬師堂の縁起

上谷薬師堂は、立川石見守の三代孫立川勘兵衛(元和5年1619年)の位牌が残されていたことから、立川勘兵衛を開基として創建したのではないかと思われます。当地には、明治初年廃寺となった宝性院がかつてあり、宝性院は上谷を開発した立川石見守が開基した寺院で、当地には立川家以外の墓地がないといいます。

新編武蔵風土記稿による上谷薬師堂の縁起

(上谷村)
寶性院
新義眞言宗、下深井村壽命院末、塚越山薬師寺と云、本尊薬師、開基は立川石見守といへり、
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薬師堂
薬師は秘佛にしてたやすく帳をひらかず、篖前に太刀を掲ぐ、是前にいへる石見守が龍を斬しりものにて、彼が家に秘蔵せしを、明和年中故あつてここに納むと云、銘もなく總て錆を生じたれば、如何なるものなりや定かならず、
辨天社、天神社(新編武蔵風土記稿より)

「鴻巣市史」通史編2による上谷薬師堂の縁起

上谷村には現在廃寺となっているが、立川石見守の開基である宝性院と呼ばれる寺院があった。また、石見守が竜を斬ったといわれる太刀は、明和年中(一七六四~七一)に薬師堂に納められたという伝承が残っている。この薬師堂は現在も宝性院があった場所に隣接して建っており、最近の調査で「当寺開基立川石見守三代孫立川勘兵衛」と記された位牌が発見されている。位牌の没年「元和五己未年(一六一九)十月七日」は石見守から数えて三代目にあたる孫の勘兵衛のものであろう。また、薬師堂と宝性院の関係については、今のところ明確にされてはいないが、宝性院に付属する一つの堂宇であったと考えるのが妥当だと思われる。この薬師堂境内には、立川家の墓地があるが他家のものは見当らない。(「鴻巣市史」通史編2より)


上谷薬師堂所蔵の文化財

  • 薬師堂の算額(絵馬)(鴻巣市指定有形文化財)

薬師堂の算額(絵馬)

算額とは、和算家が和算の問題と解答を木版に描き、神社仏閣に奉納したもので絵馬の一種である。
薬師堂の算額は、関流(関孝和の流派)の和算家都筑利治(旧騎西町)の門人九名、世話人二名が明治二十三年に奉納したもので、上谷の松村森之助、大塚久米三郎、箕田の平賀嘉代三郎の名が見られる。
和算は、中国の影響を受けて我が国独特の高度な発達を遂げた数学である。江戸時代には関孝和らによって研究が深められ、西洋数学と遜色のない水準に達したが、応用技術と結びつかなかったために科学としての研究は深められなかった。しかし、地方人士の間で一種の知的競技として難問を出し合いその解答を算額にして公開することが流行した。算額は、当時の人たちの知的水準の高さの一端を窺い知る貴重な資料でもある。(鴻巣市教育委員会掲示より)

上谷薬師堂の周辺図