永勝寺。鴻巣市指定文化財の伊奈忠次黒印状・入定塚
永勝寺の概要
曹洞宗寺院の永勝寺は、全昌山小林院と号します。永勝寺は、玄越和尚が天正2年(1574)に創建、新田開発に肝煎した功により、伊奈備前守忠次から寺領7石の黒印を慶長13年(1608)に受領したといいます。その後永福寺第17世南叟玄寿大和尚が慶長19年(1614)に開山しています。伊奈忠次黒印状及び入定塚は、鴻巣市文化財に指定されています。
山号 | 全昌山 |
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院号 | 小林院 |
寺号 | 永勝寺 |
本尊 | 釈迦如来像 |
住所 | 鴻巣市北新宿1114 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
永勝寺の縁起
永勝寺は、玄越和尚が天正2年(1574)に創建、新田開発に肝煎した功により、伊奈備前守忠次から寺領7石の黒印を慶長13年(1608)に受領したといいます。その後永福寺第17世南叟玄寿大和尚が慶長19年(1614)に開山しています。
新編武蔵風土記稿による永勝寺の縁起
(大井村)
永勝寺
禅宗曹洞派、比企郡市ノ川村永福寺末、善昌山と云、本尊釋迦を置く、開山南叟寛永十九年寂せり、(新編武蔵風土記稿より)
「吹上町史」による永勝寺の縁起
永勝寺
比企郡市野川村(現東松山市)、禅宗曹洞派永福寺末で、全昌山(善昌山)小林院と号している。
永勝寺の開基、開山、永勝寺山号の由来等に関して、県寺院明細帳、永勝寺文書は次のように記している。宝永四年(一七〇七)本寺永福寺が、新宿村組頭中からの質疑に対する返簡の中で「一、永勝寺開基玄越隠居地全昌寺之儀如何様之分ケと被尋候。右全昌寺は、永勝寺隠居地ニて玄越致隠居全昌寺と号し・・・以下略」。明細帳には「天正二甲戊十月僧玄越当寺ヲ創建シ、又故ト鎌塚村字洲崎ト云所ニ一ノ小院全昌寺ヲ創建シ、此寺ニ住スルコト三拾有余年ヲ歴タリ・・・以下略」これら文書によって、開基は玄越和尚で天正二年(一五七四)十月の創建となり、全昌寺は、元和四年(一六一八)永勝寺隠居玄越の「差上申遺書之事」には、鎌塚とはいうものの永勝寺寺内であったと記されている。
玄越は、新田開発に肝煎した大功によって慶長十三年(一六〇八)、辛労分として黒印七石及び境内除地共二六七〇坪を、伊奈備前守忠次より賜っている。同寺過古帳には、開基伊奈備前守忠次、開闢玄越和尚と記録されている。これは寺を創建し経営にあたったのは玄越和尚ではあるが、時の権威者初代関東郡代伊奈備前守忠次より、寺領拝領のお墨付を賜り寺運興隆の基が開かれたわけで、これを開基とした寺の真意をうかがうことができる。
慶長十九年(一六一四)市野川村の本寺永福寺の開山十代の法孫、南叟玄寿大和尚を迎えて、開山第一世とし、全昌寺の寺号を山号とし、全昌山永勝寺と称した。南史玄寿は、寛永十九年(一六四二)入寂した。
延享二年(一七四五)、さらに嘉永三年(一八五〇)と約一〇〇年間に二度も火災に見舞われ、諸堂宇は悉く焼失、現在も明治六年(一八七三)再建された仮本堂のままとなっている。
本尊は、釈迦如来で脇侍は、文殊、普賢の二菩薩となっている。中尊は木造、寄木造、漆箔、玉眼、通肩、像高二五センチ、江戸後期の作となっている。
境内には、地蔵尊、宝篋印塔、二十二夜待塔などの石造遺物があり、墓地北隅三井家墓所には、種痘研究の先駆者であった満井俊達並びにその父同医師「一関元輔庵主」の石塔も見ることができる。
なお境内北隅には、吹上町の文化財に指定されている相海行人の入定塚があり、小堂宇の中に五輪塔が建てられている。相海上人入定は寛文二年(一六六ニ)二月二十一日と過古帳には記されている。永勝寺永全本立和尚は入定塚の由来をこう語っている。「相海上人は諸所放浪の末新宿にたどり着いたが、ひどいぜんそくに悩んでいた。世の人たちがこの病で苦しまないよう、私にはその力はないが仏様におすがりしてなおしてもらってあげようと、生きながら土の中に入ってついに入定した。今でも土地の人は、せきの神様として百日咳などでせきになやむと願がけをし、なおると竹の小筒に酒を入れてお礼をしている。」(「吹上町史」より)
永勝寺所蔵の文化財
- 伊奈忠次黒印状(鴻巣市指定文化財)
- 入定塚(鴻巣市指定文化財)
伊奈忠次黒印状
当寺の創建は天正二年(一五七四)僧玄越によってなされたものである。玄越は寺の経営に当たるとともに周辺村々の新田開発に率先して当たり、その功大であるとして時の関東郡代伊奈備前守忠次より慶長十三年(一六〇八)に「寺領七石及び境内除地二千六百七十坪を賜る」のお墨付きを持って寺運興隆の基をつくった。なお文書の宛先が永勝寺でないのは、玄越が当寺寺域内に別の一宇「全昌寺」を建てて隠居し住していたためである。(鴻巣市教育委員会掲示より)
入定塚
永勝寺境内の北隅に相海上人の入定塚というのがある。一般墓地とは離れた場所え、小堂宇の中に五輪塔が建てられている。相海上人の入定は寛文二年(一六六二)二月二十一日であったと寺のか戸長に記されているから単なる伝説ではなく、その由来を、永全本立大和尚(二十七代住職)は次のように語っている。「相海上人は諸所放浪の末新宿の村にたどり着いたが、ひどい喘息に悩んでいた。そこで上人は、世の人々が同じようにこの病で苦しまないよう自分が仏様におすがりしよう。として生きながら土の中に入ってついに入定した。今でも土地の人々は咳の神様として百日咳などで悩むと願をかけ、直ると竹の小筒に酒を入れてお礼をすることにしている。」(鴻巣市教育委員会掲示より)
永勝寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「吹上町史」