放光寺。安達藤九盛長坐像木像と渥美壺
放光寺の概要
真言宗豊山派寺院の放光寺は、糠田山毗廬遮那院と号します。放光寺は、源頼朝の御旗奉行を務めた安達藤九郎盛長(正治2年1200年寂)が開基したとされ、当寺には、出家して蓮西と名乗った安達藤九盛長坐像木像(南北朝時代作)が奉安されています。当寺の沿革については不詳ながら、その後僧朝遍(寛文4年1664年寂)が中興したといいます。当寺の安達藤九盛長坐像木像は埼玉県文化財に指定されている他、十二世紀末頃(平安時代末~鎌倉時代初頭)に制作された渥美壺(収骨容器)は鴻巣市有形文化財に指定されています。
山号 | 糠田山 |
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院号 | 毗廬遮那院 |
寺号 | 放光寺 |
本尊 | 大日如来像 |
住所 | 鴻巣市糠田1435 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
放光寺の縁起
放光寺は、源頼朝の御旗奉行を務めた安達藤九郎盛長(正治2年1200年寂)が開基したとされ、当寺には、出家して蓮西と名乗った安達藤九盛長坐像木像(南北朝時代作)が奉安されています。当寺の沿革については不詳ながら、その後僧朝遍(寛文4年1664年寂)が中興したといいます。
新編武蔵風土記稿による放光寺の縁起
(糠田村)
放光寺
新義眞言宗、箕田村龍珠院末、糠田山と號す、中興僧朝遍寛文四年五月廿日寂す、本尊大日を安ず、外に安達藤九郎盛永の像とて一軀あり、木の坐像にていと古色なり、相傳ふ當村は昔盛長が領地なりしゆへ、其頃當寺を創立し、且自作の像を殘して永く祈願所に定めしと、おぼつかなし、それをいかにと云に、武家評林緒家大系圖等に盛長を安達藤九郎と載たり、安達は陸奥國の郡名なれば、足立とは自づから異なれり、殊に盛長の子孫景盛も始は安達を名乗りて、後年秋田城介を改號すれば、奥羽の地を領せしこと論なかるべし、思ふに安達足立唱への同じきより、かゝる附會の説はをこりしならん、
彌陀堂
觀音堂。正觀音なり、長二尺三寸五分、佛師定朝の作、(新編武蔵風土記稿より)
放光寺所蔵の文化財
- 木造安達藤九盛長坐像(埼玉県指定有形文化財)
- 糠田出土渥美壺一点(鴻巣市指定有形文化財)
木造安達藤九盛長坐像
ここ糠田山毗廬遮那院放光寺の開基は、源頼朝の御旗奉行を務めた安達藤九郎盛長とされ、本堂にはこの盛長の坐像が安置されている。
像の高さは七七・四センチメートル。寄木造で水晶の玉眼が入れられている。蓮西と名乗った出家後の姿であるが、面影はむしろ精悍な鎌倉武士を思わせる。作者は不明。制作年代は南北朝時代と思われる。
安達藤九郎盛長は、治承四年(一一八〇)源頼朝の挙兵に応じて相模の国で功を挙げ、同国を安堵(主君は臣下に対して土地の権利や職位を保障すること)された。
その後、盛長の所領は相模・下総・武蔵にまで及んだ。さらに建久五年(一一九四)には頼朝の信任をうけて鶴岡八幡宮の奉公人となった。
正治元年(一一九九)一月の頼朝の死後出家したが、その後も北条時政や大江広元等とともに重要訴訟の調査・解決などに係わるなど幕府の要職にあり、三河の守護にも就いた。正治二年(一二〇〇)に六六歳で没した。(埼玉県教育委員会・鴻巣市教育委員会掲示より)
糠田出土渥美壺一点
放光寺の境内から出土した渥美窯産の広口壺の製作年代は、十二世紀末頃(平安時代末~鎌倉時代初頭)である。火葬用の蔵骨器としてこの地方の有力者が用いたと考えられる。
当寺の開基は、鎌倉幕府にあって有力者であった安達藤九郎盛長であるとされ、その木像も本堂に安置されている。この木像に加えて出土地と製作年代が明らかな渥美壺があるということは、中世初期にこの糠田の地を拠点として活躍した有力者がいたことを物語っているといえよう。(鴻巣市教育委員会掲示より)
放光寺の周辺図