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南百水神社。越谷市東町の神社

南百水神社の概要

南百水神社は、越谷市東町にある水神社です。南百水神社の創建年代等は不詳ですが、南百村の開村と同時に創建され、南百村の鎮守社となっていたといいます。明治8年村社に列格、明治40年南百字西妻無格社手間天神社を合祀(昭和25年頃解消)したといいます。

南百水神社
南百水神社の概要
社号 水神社
祭神 弥都波能売命、少彦名命
合祀 -
境内社 古峰社
祭日 -
住所 越谷市東町2-76-1
備考 南百村鎮守、旧村社



南百水神社の由緒

南百水神社の創建年代等は不詳ですが、南百村の開村と同時に創建され、南百村の鎮守社となっていたといいます。明治8年村社に列格、明治40年南百字西妻無格社手間天神社を合祀(昭和25年頃解消)したといいます。

新編武蔵風土記稿による南百水神社の由緒

(南百村)水神社
村の鎮守なり、寳性院持、下二社持同じ。(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県・越谷市掲示による南百水神社の由緒

水神社は、元荒川の河畔、奥州旧街道に面した、ちょうど元荒川と古利根川が合流する場所にもと南百村の鎮守社として水神が祀られ尊崇されてきた。この地は古くから南百の渡しと称され、中川の主要な渡船場であった。ここに明治七年八月平沼村(現吉川町)の徳江忠次郎が自費で木場をかけた。
橋名を徳江橋(現吉川橋)といい、別名、渡船銭を徴したので賃取り橋とも呼ばれていた。
明治四十年同村大字南百字西妻無格社手間天神社を合祀したといわれ、祭神は弥都波能売命と少彦名命の二柱である。大正十二年の関東大震災では社殿が倒壊したが同十五年に再建したといわれている。境内には、宝永四年(一七〇七)と安永五年(一七七六)銘の青面金剛彫像庚申塔などが建てられている。祭日は七月十八日で、以前にはこの日、「百万遍」という行事が行われ賑わった。(埼玉県・越谷市掲示より)

「埼玉の神社」による南百水神社の由緒

南百は、古利根川と元荒川の合流点の右岸に位置しており、当社はこの両川の合流点のすぐ西の畔に鎮座している。南百の地名の由来については諸説あり、「難渡すなわち難しい渡し」の意味であるという人もあれば、「かつて地内に大きな楠と栢の木があったので『楠栢』といっていたが、流行病があった際に村の名前から木偏を取ったら病が治ったため、以来『南百』と書くようになった」という人もある。
この南百の鎮守として信仰されてきた当社が、いつごろ勧請されたのかは、記録や伝えがなく定かではないが、恐らく村の開発と相前後して祀られたものと推測される。久伊豆神社や稲荷神社が鎮守として多く祀られている越谷の市域にあって、水神社を鎮守としたのは、村が古利根川・元荒川の合流点にあるため、水害を被りやすかったことによるものと思われ、村の平穏を祈って水の神を祀ったのであろう。また『風土記稿』南百村の項に「水神社 村の鎮守なり、宝性院持」とあり、江戸期は当社南側にあった真言宗宝性院が別当であった。
明治維新の後は、明治八年に村社となり、同四十年に字西妻の無格社手間天神社を合祀(昭和二十五年ごろ合祀解消)した。大正十二年には、関東大震災で社殿が倒壊したが、同十五年に再建を果たした。なお、本殿の建築年代は不明であるが、梁には「明和六己丑(一七六九)正月吉日 奉造立水神社一宇」と記された棟札があるという。(「埼玉の神社」より)


南百水神社の周辺図


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