大沢香取神社。応永年間に香取神宮を勧請
大沢香取神社の概要
大沢香取神社は、越谷市大沢にある香取神社です。大沢香取神社は、応永年間(1394-1427)に香取神宮を勧請して創建、寛永年間(1624-1644)宿場町が成立、鷲後から当地へ遷座、大沢町の鎮守としたといいます。明治6年村社に列格していました。
社号 | 香取神社 |
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祭神 | 経津主大神 |
合祀 | 菅原道真公(天満宮)、木花開耶姫命(浅間社)、誉田別尊(八幡社)、火産巣日神(秋葉社)、崇徳天皇(琴平社)、大山衹命(阿夫利社)、市杵島姫命(厳島神社)、八心思兼命、河菜姫命、大雷神、高龗神、伊弉諾尊、伊弉册尊 |
境内社 | 八坂神社、稲荷神社 |
祭日 | 例大祭10月9日、香取市12月2日 |
住所 | 越谷市大沢3-13-38 |
備考 | 大沢町鎮守、旧村社 |
大沢香取神社の由緒
大沢香取神社は、応永年間(1394-1427)に香取神宮を勧請して創建、寛永年間(1624-1644)宿場町が成立、鷲後から当地へ遷座、大沢町の鎮守としたといいます。明治6年村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による大沢香取神社の由緒
(大澤町)香取社
大澤町の鎮守とす。別当光明院(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による大沢香取神社の由緒
大沢香取神社は、約六百年前室町時代後期の応永年間(1394-1427)に下総国一の宮(千葉県佐原市)香取神官の御祭神・経津主大神を御分霊し、香取大明神として太沢村鷺後に一村の鎮守として勧請連立された。奥州街埴(後の日光街道)の整備により武州大沢宿ができたのに伴い、寛永のころ(1624-1644)鷺後から現在の大沢の地に移した。
現在の本殿は明治元年に再建されたものであり本殿周囲の彫刻は見事である。また本殿の屋根は昭和60年に修復された。
主祭神・経津主大神は天照大御神の神勅を奉じて出雲の国譲りの大業を成し遂げられ、また東国開拓を完遂し、平和国家の建設と民生の安定福祉に貢献された神で、以来国家鎮護の神、武勇の神、産業開発の神として崇められている。時代の推移とともに五穀豊穣及び日常生活に関する一切のことをお護りになる神として招福除災の御神徳が信仰されている。(境内掲示より)
「埼玉の神社」による大沢香取神社の由緒
大沢町は、近世初期まで猿嶋街道(現国道一六号)に沿った高畑や葛西用水筋(道川)の鷺後周辺に農民が居住していたが、慶長年間(一五九六~一六一五)の奥州道(後の日光街道)の整備に伴い、それらの多くの人々が街道沿いに移住し、越ケ谷宿の加宿として取り立てられたという。
当社の創建は『明細帳』に応永年中(一三九四~一四二八)とある。また、大沢町の草分け百姓江沢太郎兵衛が著した『大沢町古馬筥』によれば、中世にこの辺りが下総国に属していたことから同国一宮香取神宮を村の鎮守として勧請し、鷺後(鷺後内野新田耕地)の地に社殿を建立したが、後に奥州道の整備に伴い、寛永のころ(一六二四~四四)に今の地に移したという。ただし、鷺後の地には今も「元香取」と呼ばれる祠がある。更に、化政期(一八〇四-三〇)の『風土記稿』には「香取社 町の鎮守とす、別当光明院 新義真言宗、末田村金剛院末、香取山と号せり、本尊十一両観音を安ず、薬師堂」と記されている。神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。
現在の本殿は、棟札によると慶応二年(一八六六)に再建されたものである。その壁面の彫刻の中には、紺屋の作業の模様が刻まれており、かつて当地で紺屋業が盛んに行われていたことをうかがわせる。
現在、祀職は小林家が務める。(「埼玉の神社」より)
大沢香取神社所蔵の文化財
- 大沢香取神社の彫刻(越谷市指定有形文化財)
大沢香取神社本殿は、明治元年(1868)12月の再建になるものだが、四面の外壁に彫刻がほどこされた奥殿は、その棟札から慶応2年(1866)の建造であることが確認できる。
彫物師は、浅草山谷町長谷川竹次良で、高砂の翁、大黒天、龍などの浮き彫りがそれぞれ奉納者の名とともに刻まれている。
ことに北面の一部には、紺屋の労働作業の有様が刻まれており、貴重な民俗資料ともなっている。当時、越ケ谷・大沢は商業都市として、とくに紺屋業が盛んであった。(越谷市教育委員会掲示より)
大沢香取神社の周辺図