大竹神社。旧称香取社
大竹神社の概要
大竹神社は、越谷市大字大竹にある稲荷神社です。大竹神社の創建年代等は不詳ながら、江戸時代初期に大竹村が開発され、開発に際して勧請、香取社と称していたといいます。明治6年村社に列格、明治40年には字宮田の浅間神社、生向の稲荷神社、字東畑の第六天社、字仲道の八坂神社と八幡神社及びその境内社の三峰神社を合祀、大竹神社と改称しています。
社号 | 大竹神社 |
---|---|
祭神 | 経津主命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷大明神、三峰社、御嶽社、山王宮・牛頭天王・大六天・天満宮・神明宮、八幡宮、猿田彦 |
祭日 | 例大祭7月1日 |
住所 | 越谷市大字大竹312 |
備考 | 旧村社 |
大竹神社の由緒
大竹神社の創建年代等は不詳ながら、江戸時代初期に大竹村が開発され、開発に際して勧請、香取社と称していたといいます。明治6年村社に列格、明治40年には字宮田の浅間神社、生向の稲荷神社、字東畑の第六天社、字仲道の八坂神社と八幡神社及びその境内社の三峰神社を合祀、大竹神社と改称しています。
新編武蔵風土記稿による大竹神社の由緒
(大竹村)
香取社
村の鎮守なり、東養寺持、下並におなじ、
---
太神社
淺間社
第六天社
天王社
稲荷社(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による大竹神社の由緒
大竹神社<越谷市大竹三一二(大竹字宮堤)>
大竹の地は、元荒川左岸に位置し、集落は同川の自然堤防上に広がっている。村の開発の年代は明らかでないが、慶安二-三年(一六四九-五〇)の『田園簿』にその村名が見える。
口碑によれば、当地には初め一二軒の人々が土着し、村の開発に当たったという。氏子の中でも島村・吉沢・関根・臼倉を名乗る家々が旧家とされ、島村家の本家は一七代目、吉沢家の本家も一七代目を数え、関根家の本家は先祖が戦に敗れこの地に土着したと伝えている。ちなみに延宝八年(一六八〇)の「岩付領内村名石高家数人数寄帳」(吉田家文書)では、家数二七・人数一六八と記されている。
当社は、元は香取社と称していた。『風土記稿』大竹村の項に「香村の鎮守なり、東養寺持」とあり、化政期(一八〇四-三〇)には村の鎮守として祀られていたことがわかる。その創建についての伝承はないが、村の開発が進められる中で勧請されたものであろう。また、別当であった東養寺は、三野宮村一乗院末で聖徳太子山亀蔵院と号する真言宗の寺院で、当社の一〇〇M東に位置している。開山開基などについては不詳である。
神仏習合時代の史料として、三面の懸仏がある。一面は宝永元年(一七〇四)銘の大日如来像懸仏(径二五・二センチメートル)であり、また一面は享保十年(一七二五)銘の香取大明神の本地仏とされる十一面観音像懸仏で「東羪寺現住法師照戒」の名が記される。更に一面は享保十年銘の客人権現像懸仏で、同じく「東養寺現住法印照戒」の名が記される。このほかに明治十七年(一八八四)に蔦村音吉により納められた唐銅の釣灯寵があり、側面に「香取大明神」と「客人大権現」の社名が刻まれている。その上部には慶応二年(一八六六)の年紀も見えることから、その年に作られたものの、時あたかも神仏分離を迎えたため、仏教色の濃い「客人大権現」の社名を時局に鑑みて奉納を見合わせ、世情の落ち着いてきた明治十七年に至って納められたものであろう。なお、この客人大権現の由来については、懸仏と釣灯寵のほかに社名が見当たらず、東養寺とかかわる社であったこと以外は明らかでない。
神仏分離により別当の東養寺から離れた当社は、明治六年に村社となった。明治四十年には、字宮田の浅間神社、生向の稲荷神社、字東畑の第六天社、字仲道の八坂神社と八幡神社及びその境内社の三峰神社のいずれも無格社を合祀し、これを機に地名を採って大竹神社と改称した。合祀社のうち字宮田の浅間神社は、後通りの人たちの強い要望により昭和二十二、三年ごろに旧地に戻された。(「埼玉の神社」より)
大竹神社の周辺図