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見田方八坂神社。越谷市大成町の神社

見田方八坂神社の概要

見田方八坂神社は、越谷市大成町にある八坂神社です。見田方八坂神社は、割役名主で「見田方様」とも称された宇田家の屋敷鎮守として祀られていた天王社が、江戸初期に当地が見田方村として成立した際に当地に遷座、見田方村の鎮守として祀られたといいます。明治8年に村社に列格、明治42年に境内社の稲荷神社・三峰社・天神社・八幡社を本社に合祀したといいます。

見田方八坂神社
見田方八坂神社の概要
社号 八坂神社
祭神 大己貴命、素盞嗚尊
合祀 -
境内社 浅間神社
祭日 -
住所 越谷市大成町1-71
備考 見田方村鎮守、旧村社



見田方八坂神社の由緒

見田方八坂神社は、割役名主で「見田方様」とも称された宇田家の屋敷鎮守として祀られていた天王社が、江戸初期に当地が見田方村として成立した際に当地に遷座、見田方村の鎮守として祀られたといいます。明治8年に村社に列格、明治42年に境内社の稲荷神社・三峰社・天神社・八幡社を本社に合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による見田方八坂神社の由緒

(見田方村)天王社
村の鎮守なり、来福寺の持
末社。稲荷、天神。(新編武蔵風土記稿より)

越谷市掲示による見田方八坂神社の由緒

八坂神社は、元荒川の河畔、奥州街道(日光道中)に面した元大相模郷の一村である見田方村の鎮守社で、天王社と称された古社である。
見田方の地は元郷の御田であったとも言われており、早くから開けたところと伝えられる。江戸時代は、忍藩(現行田市)の支配地、柿ノ木領八ヶ村に組み入れられた。
境内には、文化八年(一八一一)銘の改刻塞神塔や文久三年(一八六三)銘の猿田彦大神塔などが建てられている。
改刻塞神塔はもと庚申塔であったが、明治元年(一八六八)、神仏分離令の処置担当者として忍藩に抱えられた平田篤胤の門人木村御綱が、「庚申塔などと申すな。塞神と唱えよ。」と説いて、藩内の庚申塔をすべて塞神塔に改刻させたと言われている。このため、見田方村を中心とする柿ノ木領八ヶ村には、改刻塞神塔が数多く見られる。
また、八坂神社裏手脇にはかつて沼があり、そこに内池辨天が祀られていた。この沼は天明六年(一七八六)の関東洪水の時、元荒川の堤防が崩れてできたと言われており、人々はこの沼を”オイテケ堀”と名付けている。沼の主の大きな白蛇は人が通ると「オイテケ、オイテケ」と呼びかけ、沼に引き込むと言われたことから、人々は決して子供たちを近づけなかったと言われている。
なお、見田方の地からは、昭和四十一年・四十二年の発掘調査により、水稲農耕を営んでいたと推定される古墳時代後期(六世紀後半頃)の住居跡などが確認され、現在、その遺跡は越谷レイクタウン駅前に「見田方遺跡公園」として現状保存されている。(越谷市掲示より)

「埼玉の神社」による見田方八坂神社の由緒

鎮座地の見田方は戦国期から埼西郡大相模郷に属し、江戸初期に東方村・西方村と共に一村として独立した。一村となった当初は幕府領であったが、寛文三年(一六六三)に忍藩領となり、同じく忍藩領で近村の東方村・南百村・四条村・別府村・千疋村・伊原村・麦塚村と共に「柿木領八か村」と称された。見田方の古い集落は、元荒川の南に形成された自然堤防上に位置し、当社はこの古い集落群の北端に鎮座している。
当社は『風土記稿』見田方村の項に「天王社 村の鎮守なり、来福寺の持、末社 稲荷 天神」とある。口碑によれば、元来当社は、「柿木領八か村」の割役名主で「見田方様」とも称された宇田家の屋敷鎮守として祀られていたが、江戸初期に当地が一村となるのに伴い、宇田家によって現在地に遷座され、以来、村の鎮守として祀られるようになったという。別当の来福寺は末田村(岩槻市末田)真言宗金剛院門徒で雷電山と号した。
神仏分離により来福寺は廃寺となり、当社は明治八年に村社に列せられた。その後、明治四十二年に境内社の稲荷神社・三峰社・天神社・八幡社を本社に合祀した。(「埼玉の神社」より)


見田方八坂神社の周辺図


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