下栢間諏訪神社。久内藤四郎左衛門正成が陣屋内に勧請
下栢間諏訪神社の概要
下栢間諏訪神社は、久喜市下栢間にある神社です。下栢間諏訪神社は、徳川家康が関東に入国した天正18年(1590)に、当地を領有することになった内藤四郎左衛門正成が当地に陣屋を築き、敷地内に氏神の諏訪神を祀り創始したといいます。明治維新後に陣屋は廃止されたものの、諏訪神社が残され祀られているといいます。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建速御名方神 |
相殿 | - |
境内社 | 三峯神社 |
祭日 | 春祭4月19日、献燎祭8月26日、12月23日感謝祭 |
住所 | 久喜市下栢間2118 |
備考 | - |
下栢間諏訪神社の由緒
下栢間諏訪神社は、徳川家康が関東に入国した天正18年(1590)に、当地を領有することになった内藤四郎左衛門正成が当地に陣屋を築き、敷地内に氏神の諏訪神を祀り創始したといいます。明治維新後に陣屋は廃止されたものの、諏訪神社が残され祀られているといいます。
新編武蔵風土記稿による下栢間諏訪神社の由緒
(栢間村附持添新田)
陣屋
村の西にあり、横一町、竪三町許の地なり、四方に垣を結廻せり、内藤四郎左衛門正成此地に住し、後旗下の士一統江戸に移りしより、こゝには留守居として在住の家人一人、其餘江戸より、家人一人づゝ交代して守らしむ、今に至て然り、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による下栢間諏訪神社の由緒
諏訪神社<菖蒲町下栢山二一一八(下栢山字在家)>
当社の鎮座する下栢山は、菖蒲町の南西に位置し、南東は元荒川を挟んで蓮田市に接し、南西は桶川市に隣接している。
当地の開発は古く、「栢間七塚」と通称される栢間古墳群の存在から、六世紀中ごろまでさかのぼることができ、また、奈良・平安期の集落跡も発掘されている。更に、平安末期から南北朝期まで、武蔵七党と呼ばれる武士団の一つ、野与党の栢間氏が、その本貫地としていた。
天正十八年(一五九〇)に徳川家康が関東に入国した折、累代の御家人である内藤四郎左衛門正成に当地を与えた。正成は、当地の西部に陣屋を構えた。口碑によると、その敷地内に氏神として、諏訪神社と稲荷神社の二社を祀ったとされ、このうちの諏訪神社が当社であるという。なお、稲荷神社は、現在も仲道地区に祀られている。また、内藤家は、寛永二年(一六二五)に江戸詰めとなり、陣屋には家人を常駐させていた。しかし、この陣屋は明治維新の際に廃されて、神社のみが残された。
現在の本殿は、内藤家の管理していた山林から伐採した木材で建てられたと伝えられる。この本殿は、明治三十八年に改築修理されている。
その後、昭和十八年に神楽殿が新築され、同六十年には下栢間集会場が建てられて現在に至っている。(「埼玉の神社」より)
下栢間諏訪神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」