豊布都神社。熊谷市上奈良の神社

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豊布都神社。慶安2年に御霊社として創建

豊布都神社の概要

豊布都神社は、熊谷市上奈良にある神社です。豊布都神社は、慶安2年(1649)に御霊社として創建したといい、別当寺(東光寺)と合わせて10石の御朱印状を拝領したといいます。明治5年に社号を豊布都神社と改称、祭神を武甕槌神に改めたといいます。

豊布都神社
豊布都神社の概要
社号 豊布都神社
祭神 武甕槌命
相殿 -
境内社 琴平神社、八幡神社、八坂神社、富士御嶽神社
祭日 -
住所 熊谷市上奈良1286
備考 -



豊布都神社の由緒

豊布都神社は、慶安2年(1649)に御霊社として創建したといい、別当寺(東光寺)と合わせて10石の御朱印状を拝領したといいます。明治5年に社号を豊布都神社と改称、祭神を武甕槌神に改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による豊布都神社の由緒

(上奈良村)御霊社
村の鎮守にて、祭神は鎌倉権五郎景政なり、社内に本地佛愛染を安ず、慶安二年八月廿四日、當社領及別當寺(東光寺)領とも合て、十石の御朱印を附せらる。
鐘楼。正徳元年九月鋳造の鐘をかく。
末社。牛頭天王、八幡、稲荷、金毘羅。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による豊布都神社の由緒

豊布都神社(熊谷市上奈良字御霊)
利根川と荒川のほぼ中間に位置する上奈良は、中世の奈良郷に属し、近世になり分村した所である。地内には平安期の奈良館跡がある。
当社は元来御霊社と号していた。『風土記稿』には「御霊社 村の鎮守なり、社内に本地仏愛染を案ず、慶安二年(一六四九)八月廿四日、当社領及別当寺領とも合て十石の御朱印を附せらる(以下略)」と載せられている。創建の年代は明らかでないが、その背景にはかつて地内に荒川の川筋があったことが挙げられよう。往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとしたことが推測される。ちなみに、当時の荒川は当社と別当東光寺の間を横切る形で東西に流れ、そこには東光寺管理の「御霊の渡し」と呼ぶ渡船があったと伝えられている。
本殿には、像高三〇センチメートルの座像が奉安されており「権五郎尊像 元禄十二己卯天(一六九九)五月吉祥日 建立東光寺恵旭三十二歳」の墨書が見られる。
明治初年の神仏分離により本地の愛染明王は東光寺に移され、明治五年に祭神を武甕槌命に改め、豊布都神社と改称した。豊布都とは、武甕槌命の別称で、鎌倉権五郎の武勇にちなんだものと思われる。
なお、往時の朱印地については、東光寺に朱印状が現存する。(「埼玉の神社」より)

境内掲示による豊布都神社の由緒

当社創建の年代は不明であるが、慶安二年(一六四九〜江戸時代)に今の地に祀られたとあり、約三百年前と推定される。「新編武蔵風土記」の幡羅郡上奈良の条に「御霊社」と呼ばれ村の鎮守とあり、今の向河原・並木・二ツ道・在家・石橋・小塚の地域となっている。鎮座地は、向河原の西端にあり、往時地内には荒川が流れており、その渡船場を村人は「御霊の渡し」と呼び、今でも御霊田・御霊橋の地名が残る地である。
ご祭神は、神仏分離まで鎌倉権五郎景政で、本殿内に本地愛染を奉安するも明治五年九月には、今の武甕槌神に改め社名も豊布都神社と改称す。
往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り・御霊によるものとの考えから御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした。
本殿は、一間社流れ造りで銅板葺きの屋根となっている。本殿内には、元禄十二年に造られた「御霊之神」と墨書された神璽と共に「武甕槌神」と書された神璽が奉安されている。
老朽化した本殿を始め拝殿・幣殿を昭和五十九年一月に再建すると共に境内整備を終えた。その後、平成十六年には念願であった社務所兼地区集会場も清々しく新築をおえた。(境内掲示より)


豊布都神社の周辺図