久下神社。久下直光が鎮守として三嶋社を創建
久下神社の概要
久下神社は、熊谷市久下にある浅間神社です。久下神社は、鎌倉武士の久下直光が鎮守として三嶋社を創建、明治維新後村内各社を合祀し、大正2年久下神社と改称、翌3年伊奈利神社のあった当地へ移転したといいます。
社号 | 久下神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | 辨天・稲荷・菅原・金毘羅・青面金剛・塞神 |
祭日 | - |
住所 | 熊谷市久下829 |
備考 | - |
久下神社の由緒
久下神社は、鎌倉武士の久下直光が鎮守として三嶋社を創建、明治維新後村内各社を合祀し、大正2年久下神社と改称、翌3年伊奈利神社のあった当地へ移転したといいます。
新編武蔵風土記稿による久下神社の由緒
(久下村)
三島社。吉祥院持、村の鎮守なり。権守の頃は久下村に三嶋両社八幡三社ありと云。土人の云るに、今久下村・下久下の五村にある者是ならんと。
愛宕社。正覚寺持下同。
牛頭天王社
飯玉権現社
八幡社。正法院持。末社、大荒磯崎明神
雷電社。普門寺持下同じ
山王社
稲荷社二宇。共に村民持
(下久下村)
三島社。本山派修験成就院持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による久下神社の由緒
久下神社<熊谷市久下八二九(団久下字鎮守耕地)>
『吾妻鏡』建久三年(一一九二)の条に「是武蔵国熊谷久下境相論事也」として、熊谷直実とその一族である久下直光が将軍源頼朝の前で境界争いをしたことが記されている。当地は、右の話に登場する久下直光の在所であり、自ら深く三島大神を崇敬していた久下直光は、その鎮守として地内に二つの三島社を創建した。これが当社の始まりであると伝えられている。この二つの三島社のうち、荒川の近くにあったものは外三島、街道(中山道)の近くにあったものは内三島と呼ばれていたが、当社の母体となったのはこのうちの内三島の方である。
江戸時代に新川河岸が開かれると、その付近に多くの人が住むようになり、明治の初めに新川村が誕生するが、外三島はその村社として祀られるようになった。一方、内三島の方は中山道に沿って栄えていた旧来の久下村の鎮守であったことから久下村の村社となり、明治四十三年に地内の無格社一〇社を合祀している。
新川村と久下村は明治二十二年に合併し、その後も二つの三島社は共に村社として祀られてきた。しかし、大正二年、当社(内三島)は更に村内の神社一四社を合祀し、社名を久下神社と改めるに至り、その際、外三島は当社に合祀された。また、この合祀の翌年である同三年、当社は水害を避けるために堤内にある現在の社地(明治四十三年に合祀した伊奈利神社の境内であった)に移転し、今に至っている。(「埼玉の神社」より)
久下神社の周辺図