南市田神社。市田村が成立した際に諸社を合祀
南市田神社の概要
南市田神社は、熊谷市中曽根にある神社です。南市田神社は、明治22年近隣の11ヶ村が合併して市田村が成立した際に、旧村内の各社を遷座合併し、中曽根の村社だった五社神社境内地に創建、荒川対岸の熊谷市久下に北市田の地名があったことから当社を南市田と号したといいます。
社号 | 南市田神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | 牛頭天王、八坂、八坂、天満 |
祭日 | - |
住所 | 熊谷市中曽根145 |
備考 | - |
南市田神社の由緒
南市田神社は、明治22年近隣の11ヶ村が合併して市田村が成立した際に、旧村内のに鎮座していた五社神社(中曽根村)、氷川神社(屈戸村)、以奈利神社(屈戸村)、瀧祭神社(吉所敷村)、瀧祭神社(沼黒村)、八幡神社(津田新田村)、氷川八幡神社(手島村)、愛宕神社、八尾神社(小泉村)を遷座合併し、中曽根の村社だった五社神社境内地に創建、荒川対岸の熊谷市久下に北市田の地名があったことから当社を南市田と号したといいます。
新編武蔵風土記稿による南市田神社の由緒
(中曾根村)
五社明神社
村の鎮守なり、金胎寺持、下同、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による南市田神社の由緒
南市田神社<大里村中曾根一五〇(中曾根字北町)>
明治二十二年、中曾根・小泉・屈戸・手島・沼黒・吉所敷・津田新田・高本・上恩田・中恩田・下思田の一一か村を合併し、市田村が誕生した。村名は『和名抄』に見える市田郡にちなむものであった。
当社は、明治四十三年にこれら旧村の内の中曾根・小泉・屈戸・手島・沼黒・吉所敷・津田新田に鎮座していた各社を遷座統合し、市田村の中心的な社として創建された。社地については、中曾根の村社であった五社神社の境内地が選ばれた。これは、中曾根地区に市田村の役場が置かれ、行政的な中心地であったことによるものである。社名の「南市田」は、荒川対岸の熊谷市久下に北市田の小名があり、これに対して南にある市田の意を表している。ちなみに、この「北市田」は、江戸初期の荒川開削以前は市田村と陸続きであったという。
遷座統合によって、氏子数は増したものの、境内地の広さは三三五坪と従来のままであった。このため、例祭などの執行に支障を来すようになり、ついに大正二年に境内の西側の田畑三五五坪を整地し、新たな境内として編入し、総面積は六九〇坪に広められた。更に同三年には社殿を中央に移し、名実ともに地域の中心的な社としての体裁を整えた。なお、統合の中心となった五社神社については『風土記稿』に「村の鎮守なり、金胎寺持」と載る。金胎寺は当社東側にある真言宗の寺院で、名主茂右衛門の先祖によって開基されたと伝える。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による南市田神社の由緒
市町村合併が明治二十二年(一八八九)に実施され、市田村が誕生した。このことにともない中曽根、小泉、屈戸、手島、沼黒、吉所敷、天水、津田新田に鎮座していた各社を遷座統合して明治四十三年(一九一〇)に市田村の中心的な社として創建された。社地は、中曽根の村社であった五社神社の境内が選ばれた。中曽根地区は市田村の行政的な中心地であった。
社名の「南市田」は、荒川対岸の熊谷市久下に「北市田」の小名があり、これに対して南にある市田の一を表して、神社名がつけられた。(境内掲示より)
南市田神社の周辺図