野原八幡神社。熊谷市野原の神社

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野原八幡神社。熊谷市野原の神社

野原八幡神社の概要

野原八幡神社は、熊谷市野原にある八幡神社です。野原八幡神社の創建年代等は不詳ながら、徳川家康の関東入国後、寛永10年(1633)に領主となった稲垣若狭守重太は当社を崇敬、侍臣田村茂兵衛に命じて社殿の造営を行なったといいます。江戸期には野原村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格していました。

野原八幡神社
野原八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別命
相殿 -
境内社 雷電社、三峰社、鹿島社、愛宕・山之神・稲荷・天満合殿
祭日 祈年祭2月20日、春季大祭4月17日、雷電祭7月28日、秋季大祭10月17日
住所 熊谷市野原66
備考 -



野原八幡神社の由緒

野原八幡神社の創建年代等は不詳ながら、徳川家康の関東入国後、寛永10年(1633)に領主となった稲垣若狭守重太は当社を崇敬、侍臣田村茂兵衛に命じて社殿の造営を行なったといいます。江戸期には野原村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格していました。

境内掲示による野原八幡神社の由緒

八幡神社と野原古墳群
八幡神社の祭神は誉田別命で、御神体は御鏡と奇石である。
創立年代は不明であるが、寛永二十年(一六四三年)、時の領主稲垣安芸守の崇敬厚く、侍臣田村茂兵衛に命じて社殿の造営に当たらせたことが社伝の棟札に記されている。また、宝暦十一年(一七六一年)、時の領主前田半十郎が家臣、内貴与左衛門をして本殿(内宮)の工事を監督させたことも別の棟札に記されている。前田氏からは、明治維新に至るまで毎年神社への御供米一斗二升が献納されていたという。
社前にある一対の石灯篭は、天保三年(一八三二年)前田信知の後室が「武運長久、家士安穏、采地村民安全」を祈願し献納したものである。
なお、八幡神社裏から西方にかけて、野原古墳群と呼ばれる古墳群が分布している。
荒川の一支流和田川に面した南傾斜の小高い丘にある古墳は、昭和初年には三十余基を数えたが、開墾や採土等により損壊され、今は二十数基を残すのみである。
有名な「踊るはにわ」(昭和五年出土、国立博物館蔵)が出土した前方後円墳も神社西方にあったが、現在は開墾されて桑畑となり、その跡をとどめていない。
これらの古墳の築造は、六世紀後半から七世紀前半にかけて行われたものといわれ、当時、この地方にかなりの勢力をもった豪族が居住したことを物語っている。(埼玉県掲示より)

新編武蔵風土記稿による野原八幡神社の由緒

(野原村)
八幡宮
村の鎮守なり、
本山修験大徳院持、大徳院は葛飾郡幸手不動院配下なり、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による野原八幡神社の由緒

八幡神社<江南町野原六六(野原字宮脇)>
当社の祭神は、誉田別命である。社蔵の九石は、創建当初から祀られていると伝え、神霊の宿る石として大切にされている。
創建年代は明らかではないが、造営は棟札によると、寛永十年(一六三三)に当地が武川衆の後を受けて稲垣家の領地になったことから寛永二十年二月、稲垣安芸守は村内の安泰を祈り、家臣の田村茂兵衛に命じて本殿を再建した。ちなみに、稲垣家は当地を領した時、幕府御書院頭の職にあり、後に六千石の大身となった。
次いで、当地は幕府御料所となり、更に元禄十一年(一六九八)六月には、前田安芸守の領地となった。棟札によると、宝暦十一年(一七六一)九月、領主前田半十郎は、家臣内貴与在右衛門に命じて本殿を造営している。また、拝殿前にある一対の石灯龍は、天保三年(一八三二)六月、前田信知の後室が武運長久、家土安穏、村民安全を祈って奉納したものである。なお、前田家は当地を領して、以来、幕末まで当社に御供米一斗二升を毎年献納したといわれる。
別当については変遷が見られ、寛永二十年の棟札には「別当金蔵院源覚法印」、宝暦十一年の棟札には「別当正宝院源久法印代」の名が、更に『風土記稿』には幸手不動院配下の本山派修験八幡山大徳院が載る。明治維新になると、別当大徳院は復飾して森本肇と名乗り、明治二年に神祇官から教導職を許され、同十年には祠掌に補せられた。(「埼玉の神社」より)


野原八幡神社の周辺図