八幡若宮八幡神社。八幡神社に若宮八幡神社を合祀
八幡若宮八幡神社の概要
八幡若宮八幡神社は、熊谷市押切にある八幡若宮八幡神社です。八幡若宮八幡神社の創建年代等は不詳ながら、かつては押切の四角の森に鎮座、文化6年(1809)から文政10年(1827)にかけての洪水により、文政12年(1829)当地へ遷座したといいます。押切村の鎮守として祀られ、明治5年若宮権現社を合祀し、明治7年村社に列格していました。若宮権現社は、本山派修験御正山東陽寺若宮坊の境内に祀られていた社で、天平勝宝3年(751)の創建と伝えられる古社でした。
社号 | 八幡若宮八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | 仁徳天皇 |
境内社 | 神明社・稲荷社・戸隠社合殿、神明大神宮 |
祭日 | 新年祭2月19日、感謝祭12月1日、例大祭10月15日 |
住所 | 熊谷市押切1056-1 |
備考 | - |
八幡若宮八幡神社の由緒
八幡若宮八幡神社の創建年代等は不詳ながら、かつては押切の四角の森に鎮座、文化6年(1809)から文政10年(1827)にかけての洪水により、文政12年(1829)当地へ遷座したといいます。押切村の鎮守として祀られ、明治5年若宮権現社を合祀し、明治7年村社に列格していました。若宮権現社は、本山派修験御正山東陽寺若宮坊の境内に祀られていた社で、天平勝宝3年(751)の創建と伝えられる古社でした。
境内掲示による八幡若宮八幡神社の由緒
八幡若宮八幡神社
村社八幡若宮八幡神社は、明治初年まで八幡宮と称したが、明治五年上押切御正山若宮坊東陽寺の氏神若宮八幡社の祭神仁徳天皇を移転合祀し、同時に現在の名称にされた。
祭神は、誉田別命、御神体は明治初年まで誉田別命の乗馬の像であったが、合祀の際これを撤し、御幣とした。なお、大正四年、大嘗祭記念として鏡を御神体として奉斎した。末社には、主神の神明社ほか一社がある。
本社の創立年代は、不詳である。当社は、文化六年(一八〇九年)、同七年文政十年(一八二七年)と度々の大洪水で流失したため、用水堀のほとり(元八幡)に仮本殿をつくり、文政十二年に現地に遷座した。
新年祭は二月十九日、感謝祭は十二月一日、大祭は十月十五日で、大祭当日は「ササラ獅子舞」が奉納される。(埼玉県掲示より)
新編武蔵風土記稿による八幡若宮八幡神社の由緒
(押切村)
八幡社
村鎮守、神主篠田周防持吉田家の配下(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による八幡若宮八幡神社の由緒
八幡若宮八幡神社<江南町押切一〇五六-一(押切字縄堀)>
当社は、文政十年(一八二七)まで、現在地から北西一キロメートルのところの荒川河岸(現荒川河川内)に鎮座していた。「押切の四角の森」と呼ばれた社地は、樹齢数百年を経た老杉が林立していたことから、旅人が釜伏峠から眺めると、必ず目に止まったという。四角の森というのは、遠望した折の森の形を形容したものである。しかし、この森も、文化六年(一八〇九)の水害で一部水没、更に、文政七年(一八二四)、次いで文政十年の洪水で流失した。本殿のみは、難を逃れて近くの用水の側(元八幡)に仮遷座していたが、文政十二年、当社をそのまま放置するのを憂えた村人は、祭祀を永続すべき地を現在地に定め、遷座した。
創建は、水害で史料を失い明らかではないが、口碑に、当地を領した武将が戦勝を祈願し、その報賽で社殿を建立したと伝えている。
社名は、長く「八幡社」であったが、明治初年廃寺となった本山派修験、御正山東陽寺若宮坊の境内にあった「若宮権現社」を明治五年に合祀して、「八幡若宮八幡神社」と改めた。若宮権現社は『風土記稿』によると、天平勝宝三年(七五一)の創建を伝える古社である。
祀職は当地累代の篠田和義家が務める。同家は、宝暦十年(一七六〇)の四組木綿手跡許状をはじめとする江戸期の神道裁許状を六点所蔵している。(「埼玉の神社」より)
八幡若宮八幡神社の周辺図