柴八幡神社。鶴岡八幡宮勧請の伝承
柴八幡神社の概要
柴八幡神社は、熊谷市柴にある八幡神社です。柴八幡神社の創建年代等は不詳ながら、源頼朝が活躍した建久年間(1190-1199)に、鶴岡八幡宮を勧請したと伝えられます。また一方、信濃国の豪族小笠原氏が当地に土着、その後裔柴家が勧請した可能性も推測されています。江戸期には柴村の鎮守として祀られ、当地より西方300m程の地に鎮座していたものの、享保年間に村の中央にあたる当地へ遷座、明治4年には村社に列格していました。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | - |
境内社 | 大山祇社、天神社 |
祭日 | 春祭り4月第二日曜日、秋祭り10月第二日曜日 |
住所 | 熊谷市柴164 |
備考 | - |
柴八幡神社の由緒
柴八幡神社の創建年代等は不詳ながら、源頼朝が活躍した建久年間(1190-1199)に、鶴岡八幡宮を勧請したと伝えられます。また一方、信濃国の豪族小笠原氏が当地に土着、その後裔柴家が勧請した可能性も推測されています。江戸期には柴村の鎮守として祀られ、当地より西方300m程の地に鎮座していたものの、享保年間に村の中央にあたる当地へ遷座、明治4年には村社に列格していました。
境内掲示による柴八幡神社の由緒
八幡神社
本社の祭神は誉田別命で御母君は三韓征伐で有名な神功皇后である。
本殿は大破風流造向拝付杉材屋根板葺で末社が二社合祀されている。
いい伝えによると、この柴八幡神社の創立は、後鳥羽天皇建久年中といい、鎌倉を中心に各地に建立された八幡社の一つである。明治維新前までは、現在地から西方三百メートルに位置し、数百年を経た松、杉の老樹生い茂り、かつ、八幡免と称する神領が数多くあったと伝えられている。
戦前は、武神として武運長久を祈願する出征兵士家族の八幡八社詣でにぎわった。
祭礼は、春の日待ちが四月の第二日曜日、秋の日待ちが十月の第二日曜日である。(埼玉県掲示より)
新編武蔵風土記稿による柴八幡神社の由緒
(柴村)
八幡社
村の鎮守なり、村持下同じ、
山神社(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による柴八幡神社の由緒
八幡神社<江南町柴(柴字西)>
県の「ふるさと歩道」にも指定されている当社の杜は、老杉が緑豊かなる樹叢を形成しており、散策する人々の憩いの場として親しまれている。
鎮座地は、村の西外れにあったが、享保年間(一七一六-三六)、村人の参詣の便に供するため村の中央の現在地に移された。その跡地は、いまだに「元八幡」と呼ばれて大切に保存されでいる。
創建は、社伝によると後鳥羽天皇の御代、建久年間(一一九〇-九九)で、鎌倉の鶴岡八幡宮を本社として関東各地に建立された八幡社の内の一社であるといわれる。
しかし、戦国末期、当地に土着して以来、江戸期を通じて代々名主を務めた信濃国の豪族小笠原氏の後裔「柴家」の存在を考えると、当社は同家の祀った神社であった可能性もある。
本殿は、朱塗りの一間社流造りで、間口二尺、奥行四尺ほどのこぢんまりとしたものである。造営は、内陣墨書によると、宝暦三年(一七五三)三月で、御正領春野原村の大工、長瀬喜兵衛の手により行われた。
なお、社蔵の「一万度御抜大麻」には、三日市大夫次郎の名前があることから、当時武蔵国を中心に神札を配布していた伊勢神宮の御師の勢力が当村まで及んでいたことがわかる。(「埼玉の神社」より)
柴八幡神社の周辺図