高城神社。延喜式内社論社
高城神社の概要
高城神社は、熊谷市高本にある神社です。高城神社の創建年代等は不詳ながら、当村名主芳三郎が提出した「武蔵国大里郡高本村三社」に、相上村吉見神社の社家徳永豊洲が文久3年(1863)に当社の旧社地に接して家を建てた時、地中から「无邪志国・高城神社」とある古代の銅製の鈴(現存)を発見したと記され、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている式内社に比定されています。
社号 | 高城神社 |
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祭神 | 高皇産霊命 |
相殿 | - |
境内社 | 武之内稲荷神社、牛頭天王、天満、天神、水神、瀧祭神社 |
祭日 | - |
住所 | 熊谷市高本562 |
備考 | - |
高城神社の由緒
高城神社の創建年代等は不詳ながら、当村名主芳三郎が提出した「武蔵国大里郡高本村三社」に、相上村吉見神社の社家徳永豊洲が文久3年(1863)に当社の旧社地に接して家を建てた時、地中から「无邪志国・高城神社」とある古代の銅製の鈴(現存)を発見したと記され、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている式内社に比定されています。
新編武蔵風土記稿による高城神社の由緒
(高本村)
御靈明神社
村の鎮守とす、鎌倉権五郎景政の靈を祀ると云、地蔵院の持、下同、
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瀧宮
天神社
今は廃止て、再興に及ばず、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による高城神社の由緒
高城神社<大里村高本(高本字高城街)>
当社は、延喜式内の神社と伝えられている。鎮座地に移動があり、『明細帳』は「旧社地ハ村ノ北方ナリシガ村民居住ノ後ノ方に当タルタメ現在地ニ遷座スル」と記載している。また、昭和四年に、当時の村助役である田所泰造の日記した『延喜式内高城神社誌』は「和田吉野川の流れに近い中街に古く鎮座していたが、流れが変わり当社は下流の中ノ森(高城街)に流された。これを神慮であるとして以来この地に祀られる」としている。いずれにしても、この移転の時期は不明である。昭和四十五年に、中ノ森は河川改修地域となり移転を迫られた当社は、旧社地である中街の現在地へ再び遷座している。
明治初め、当村名主芳三郎が浦和県社寺改役に提出した「武蔵国大里郡高本村三社」に、相上村吉見大神の社家徳永豊洲が文久三年(一八六三)に当社の旧社地に接して家を建てた時、地中から「无邪志国・高城神社」とある古代の銅製の鈴を見付けたことを書いている。この鈴は社宝として現存し、式内社を証明する一つとされている。
先に述べた『延喜式内高城神社誌』は当社の奉仕者について、古代から高木氏が仕え、初めは神主、後に修験正覚院となる。高木氏は、徳治二年(一三〇七)に幡羅郡長井太田に移り太田城主高木内蔵之介元信となる。下って元和四年(一六一八)に正覚院跡に大和国初瀬の小池坊から地蔵院を移し、明治維新まで当社の別当としたとある。(「埼玉の神社」より)
高城神社の周辺図