文殊寺。日本三体文殊、増田四郎重富公中興
文殊寺の概要
曹洞宗寺院の文殊寺は、五台山と号します。文殊寺の創建年代等は不詳ながら、本尊文殊菩薩は隋から伝来した像を奉安、五臺山能満寺と称する天台宗寺院だったと伝えられます。長保年間(999-1004)には一条天皇も厚く信仰、源頼朝は治承4年(1180)当寺を再建したといいます。文明13年(1481)の火災に依り焼失したものの、四つ山城主増田四郎重富公が翌々年の文明15年(1483)当地へ移転の上曹洞宗寺院に改めて中興、大愚山文殊寺と改号しています。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領20石の御朱印状を受領、近隣に末寺10ヶ寺を擁していました。本尊文殊菩薩像は、丹後の切戸、米沢の亀岡と共に日本三体文殊と称され、遠近の参詣者で賑わっています。
山号 | 五台山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 文殊寺 |
本尊 | 文殊菩薩像 |
住所 | 熊谷市野原623 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
文殊寺の縁起
文殊寺の創建年代等は不詳ながら、本尊文殊菩薩は隋から伝来した像を奉安、五臺山能満寺と称する天台宗寺院だったと伝えられます。長保年間(999-1004)には一条天皇も厚く信仰、源頼朝は治承4年(1180)当寺を再建したといいます。文明13年(1481)の火災に依り焼失したものの、四つ山城主増田四郎重富公が翌々年の文明15年(1483)当地へ移転の上曹洞宗寺院に改めて中興、大愚山文殊寺と改号しています。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領20石の御朱印状を受領、近隣に末寺10ヶ寺を擁していました。本尊文殊菩薩像は、丹後の切戸、米沢の亀岡と共に日本三体文殊と称され、遠近の参詣者で賑わっています。
境内掲示による文殊寺の縁起
文殊寺は五台山文殊寺と称し、曹洞宗の寺で文殊菩薩を本尊としている。開山は、崇芝性岱大和尚である。
「三人寄れば文殊の知恵」という言葉があるが、文殊菩薩は、知恵をつかさどる仏さまとして尊ばれ、信仰されている。丹後の切戸、米沢の亀岡、武州野原の文殊寺は、日本三体文殊として有名である。
この文殊寺は古く、関東地方の平和を願って建立したもので、その後、鎌倉時代に再興され五台山能満寺、さらには大愚山文殊寺ともいわれ、大きな美しい寺であったという。不幸にも文明十三年(一四八一年)火災に遭い大部分が焼失し、現在は能満寺谷という地名にその名残をとどめている(現在地より三百メートルほど西方立正大学運動場付近)。
同十五年、現在地に比企郡高見の四つ山城主増田四郎重富公が再建し、これを中興の開基とし、徳川時代には寺領二十石の御朱印地であった。その後、たびたび火災に遭い、残っているものは、建物では仁王門と、館跡を物語るかまえ堀だけである。
なお、毎年二月二十五日の大縁日には、遠近の信者で大変なにぎわいを見せている。(埼玉県掲示より)
新編武蔵風土記稿による文殊寺の縁起
(野原村)
文殊寺
禅宗曹洞派、遠江國榛原郡高尾村石雲院末、大愚山と號す、中古清凉院と唱ひしが、今は用ひずと云、寺領二十石は、天正十九年東照宮成田龍淵寺より、當寺へ渡らせたまひて、この御墨附を給はりしと云、抑當寺は古五臺山能満寺と號し、台宗の古刹にて、鎌倉右大将家より再興あり、伽藍頗る荘厳美盡せりと云、其頃は今の地より二三町を隔ててあり、今に其跡を能満寺谷と唱ふ、其後文明十三年正月二十日回禄の災にかゝり、文殊堂幷に本堂山門等盡く烏有となりしかば、同き十五年増田四郎重富と云もの、攸をみて今の地に伽藍を建立し、台家を改め禅林となし、今の山號寺號に改む、故に是を中興の開基と稱す、時の開山宗柴性岱和尚なり、明應五年十月二十七日寂せり、重富は比企郡高見村四ツ山の城主なり、今も其城跡存す、又幡羅郡増田村も重富が住せし地と云傳へり、この重富は長享元年二月三日卒せし人にて、法名傑山英公居士と稱す、今境内墓所に其塚あり、本尊文殊は坐像にて、長八寸二分、作詳ならずと雖ども、靈驗殊に著しき、遠近の者群参す、又別に彌陀像を安ず、開基重富の守護佛なりと云傳ふ、當寺古は三百六十四ヶ寺の本寺なりしが、中古故ありて離末し、今は纔に十ヶ寺なり、
本堂
衆寮
山門
廻廊
中門
二王門
鐘樓。寛延三年鑄造の鐘を掛
白山社。境内の鎮守なり、
辨天社
稲荷社
觀音堂。百觀音を安ず
増田四郎重富塚。境内墓所隅にあり、高さ一尺五寸許、幅四尺許石碑なし、(新編武蔵風土記稿より)
文殊寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿