高富蕎高神社。側高神社を勧請
高富蕎高神社の概要
高富蕎高神社は、吉川市高富にある神社です。高富蕎高神社の創建年代は不詳ですが、旧高久村や旧保村にある蕎高神社と起源を同じくするのではないかといい、江戸時代には高富村の鎮守社だったといいます。明治39年に無格社八幡神社と天神社を合祀しています。
社号 | 蕎高神社 |
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祭神 | 高木の神 |
相殿 | - |
境内社 | 水神宮、三峰神社、天満宮、山王権現社、稲荷神社、別雷社、蔵王権現社、 |
祭日 | - |
住所 | 吉川市高富1-12-11 |
備考 | - |
高富蕎高神社の由緒
高富蕎高神社の創建年代は不詳ですが、旧高久村や旧保村にある蕎高神社と起源を同じくするのではないかといい、江戸時代には高富村の鎮守社だったといいます。明治39年に無格社八幡神社と天神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による高富蕎高神社の由緒
(高富村)蕎高明神社
村の鎮守とす、観蔵院持、下二社持同
末社庚申。猿の石像なり、土人は於猿さまと呼ぶ。(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県・吉川市掲示による高富蕎高神社の由緒
蕎高神社の祭神は、高木大神と言われ、商売繁昌の神とされている。高木の神とは、高い木に降下する神の意で、その信仰はアジア大陸に広く分布している。このためこの蕎高神社は、小高い丘や山に祀られている。
例祭は、毎年一月七日に行われている「あられぶっつけ」の行事である。この行事は、御歩射(関東地方東部に行われる春の村寄合)の一つで、毎年とれた米であられを作り重箱一ぱいにつめて持ちより、祈祷が終ると祝宴が催されるのであるが、ほどよく盛り上がったころ、この持ち寄ったあられをぶっつけ合って、五穀豊穣、無病息災を願うものである。
また、当神社には、享保三年の高さ八十センチの地蔵銅像(坐像)が保存されている。(埼玉県・吉川市掲示(埼玉県・吉川市掲示より)
「埼玉の神社」による高富蕎高神社の由緒
蕎高神社(高富字北境)
当社は下総国一の宮、香取神宮の第一の摂社とされた側高神社の分社である。側高の語源は、鎮座地が古代「香取の海」といわれた利根川下流沿いの微高地が古代「香取の海」といわれた利根川下流域沿いの微高地、いわゆる阻高き所にあったことに由来する。摂社として重きを置かれたのは、古代、東国経営の拠点であった香取神宮の創建と共通するものがあったためと考えられる。側高の神の性格については明らかではないが、香取の神の命令により、側高の神が陸奥国の馬二千匹を捕らえて下総国にもたらしたという伝承があることから、軍馬を養う牧とかかわりがあったことも推測できる。
当社の創建は、当地一帯が中世開発された中川の自然堤防上にある村落のひとつであることから、村が形成される過程において勧請されたものと思われる。同名の神社は、吉川町内では旧高久村(註:高久蕎高神社)や旧保村地区に鎮座し、明治初期までは、松伏町築比地にも階鷹神社と表記する神社があった。
「風土記稿」には、「蕎高明神社 村の鎮守とす 観蔵院持ち」とある。これに見える観蔵院は明治の神仏分離により廃寺となっており、その開基や宗派などについては不明である。
合祀の史料としては、「合祀箱」と書かれた奉斎箱があり、明治三十九年に無格社八幡神社と天神社を合祀した旨が墨書されている。これは、当時の社掌、戸張竹四郎により記されたものである。(「埼玉の神社」より)
高富蕎高神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」