戸ケ崎香取神社。戸ケ崎郷を支配した戸崎氏が香取神宮を勧請
戸ケ崎香取神社の概要
戸ケ崎香取神社は、三郷市戸ケ崎にある香取神社です。戸ケ崎香取神社の創建年代は不詳ですが、戸ケ崎郷を支配したといわれる戸崎氏が至徳4年(1387)に香取神宮を勧請したとも、文明年間(1469-1487)に勧請したとも、戦国時代に匝瑳氏が勧請したともいいます。
社号 | 香取神社 |
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祭神 | 経津主之命 |
相殿 | - |
境内社 | 三峰社、浅間社、子安社 |
祭日 | - |
住所 | 三郷市戸ケ崎2-38-1 |
備考 | - |
戸ケ崎香取神社の由緒
戸ケ崎香取神社の創建年代は不詳ですが、戸ケ崎郷を支配したといわれる戸崎氏が至徳4年(1387)に香取神宮を勧請したとも、文明年間(1469-1487)に勧請したとも、戦国時代に匝瑳氏が勧請したともいいます。
新編武蔵風土記稿による戸ケ崎香取神社の由緒
(戸ケ崎村)香取社
村の総鎮守とす、本地佛十一面観音を安ず。明応二年再造の棟札あり。西福寺持。
末社諏訪天神荒神合社子安。
三峰庵一宇。弥陀を安ず、社を守るもの住せり。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による戸ケ崎香取神社の由緒
香取神社
当地は、古利根川の屈曲点に当たり、地名も陸地が川に突き出した所「とがったさき」戸ケ崎となったといい、古くから開かれている。
当社の創建については、幾つかの伝えがある。一つは社伝によるもので、戸ケ崎郷を支配したといわれる戸崎氏が至徳四年(一三八七)に香取大明神を勧請したとある。これは、応安五年(一三七二)の「管領細川頼之奉書案」に、下総国一の宮香取神宮が造営・灯油の料として各地に関所を設け、関銭を徴収することが記され、当地にも同宮の関所があったところから、この伝えは起こったものであろう。
次に、元文四年(一七三九)の「伊奈半左衛門挙証書」のうちに、文明年間(一四六九-八七)に経津主命を勧請したとの記事がある。
しかし、このころは応仁・文明の大乱が起こった時期に当たり、当地の状況も不明であり明らかにできない。
更に、戦国期に当地を領有した匝瑳氏が勧請したとの伝えもある。匝瑳氏は、当地に館を構えたとされ、『小田原衆所領役帳』に「四拾七貫三百六拾文、匝瑳蔵人佑」とある。匝瑳大隅守信利は、天正十年(一五八二)に、後世当社に合祀された富士浅間神社に鰐口を奉納している。伝えによると、この富士浅間神社が、匝瑳館の表鬼門除けとして勧請された神社であり、館跡を挟んで建つ当社が、同館の裏鬼門除けとして同時に勧請されたものではないかというものである。(「埼玉の神社」より)
戸ケ崎香取神社所蔵の文化財
- 鰐口(三郷市指定文化財)
鰐口
鰐口とは社殿や仏堂の軒下につるして参詣人が布で編んだ大網を振り動かして祈願するものです。
この鰐口は旧戸ケ崎浅間神社に寄進されていたもので、明治四十三年に戸ケ崎香取神社に合祀されたため当神社に所蔵されています。室町時代の作で、銘文には「下総国戸ケ崎郷冨士浅間神社大井鰐口 檀那匝瑳大隅信利別当新大僧永識天正十年(一五八二)」と刻まれています。
寄進社の匝瑳氏は戦国時代に戸ケ崎地区を支配していた武士で、史料によれば小田原北条氏の家臣で四十七貫文の所領を与えられていたといわれます。
なお当神社の東にある西福寺は匝瑳氏の開基と伝えられ現在も匝瑳氏の墓数基が残されています。
明治時代に神仏分離令により神社から鰐口・梵鐘など仏教的要素のものを取りはずすことが命じられ、現在神社に残る鰐口の多くは、神仏習合時代の所産であるといわれます。(三郷市教育委員会掲示より)
戸ケ崎香取神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」