清浄寺。親鸞聖人ゆかりの旧跡
清浄寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の清浄寺は、楠井山と号します。清浄寺は、弘長元年(1261年)に親鸞聖人が弟子の西念を連れて足立郡野田(さいたま市緑区上野田・下野田)を巡錫した際に西光寺を建立、また木売には西光院を建立したといいます。建武の新政(1334)後に治世が乱れ、野田西光寺は廃寺となったものの、当地の西光院は浄土真宗寺院として法燈を継続していましたが、小田原北條氏康の代に領内の浄土真宗寺院破却・改宗された際、破却を免れるために真言宗寺院となったと思われます。しかしながら当地は親鸞聖人ゆかりの古跡でもあったことから、江戸時代末期の天保10年(1839)に浄土真宗の信者が、真言宗となっていた西光院から旧跡一切を借り受け、清浄寺と号して再建したといいます。
山号 | 楠井山 |
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院号 | - |
寺号 | 清浄寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 吉川市木売2-20-5 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
清浄寺の縁起
清浄寺は、弘長元年(1261年)に親鸞聖人が弟子の西念を連れて足立郡野田(さいたま市緑区上野田・下野田)を巡錫した際に西光寺を建立、また木売には西光院を建立したといいます。建武の新政(1334)後に治世が乱れ、野田西光寺は廃寺となったものの、当地の西光院は浄土真宗寺院として法燈を継続していましたが、小田原北條氏康の代に領内の浄土真宗寺院破却・改宗された際、破却を免れるために真言宗寺院となったと思われます。しかしながら当地は親鸞聖人ゆかりの古跡でもあったことから、江戸時代末期の天保10年(1839)に浄土真宗の信者が、真言宗となっていた西光院から旧跡一切を借り受け、清浄寺と号して再建したといいます。
「吉川市史・通史編」による清浄寺の縁起
縁起・沿革
【野田茂木家文書により、天保10年(1839)、西光院内の旧跡一切が新義真言宗から浄土真宗に対して、永代預け置かれたことが知れる。なお、同家史料による寺名・清浄寺の初出は、天保15年(1844)】
【「郡村誌」には、「東西十七間南北十八間面積三百六坪村の南方にあり、真宗西京西本願寺の末派なり」とある。】
【「寺院明細帳」には、本尊・見真大師、由緒・不詳、信徒・29人とある。なお見真大師は親鸞聖人の謚号】(「吉川市史・通史編」より)
新編武蔵風土記稿による清浄寺の縁起
(木売村)
西光院
新義眞言宗、高久村密嚴院門徒、楠井山と號す、春日の作の彌陀を本尊とす、縁起の略に云、當院往昔は浄土眞宗なり、昔親鸞其弟子西念を携て當國足立郡野田の里に来り、一宇を建立して西念寺と號せり、又其頃此木賣川戸は舟附にて人民の集る所なれば、西念に命じ當院を造立せしめて西光院と稱し、師弟かはるがはる兩寺に来住して説法し、親鸞眞向の彌陀を畫きて當院の本尊とす、又寺中に水なきにより、楠の古木の切口を杖にて叩きしかば、其切株より泉湧出せりよりて楠井山と號す、親鸞歸洛の後西念此地に留り、兩寺に往来して教化を専とす、後西念上洛して師に謁せし時、念が乞により自ら肖像を彫刻して與へり、西念持歸て當院に安ぜり、此像のことは下に云り、其後正應元年本願寺覺如關東下向の時、西念年百七歳、先師の口決を辨じ得て明なりしかば、覺如感じて西念寺を改て長命寺と號す、又親鸞の弟子に性海と云僧あり、其時西念と同宿たりしが、覺如一字をあたへ、又西念の一字を取て覺念と改て二世となし、西念は當院に移て隠棲し、翌二年三月十五日寂せり、覺念は延慶二年九十八歳にて化す、其後絵師西順當院の三世となり、從弟西祐に野田長命寺を繼がしむ、これより始めて兩寺の住侶を分つ、建武の擾乱に及て野田長命寺は破却せられ、西祐在所を失ふに到る、(後信濃國にて長命寺を再建す)、西順は延元二年七月十九日化し、四世了西は應安五年四月七日寂すと云、又傳ふ天正年中信長浄土眞宗を征せし時、其難を避て今の宗に改しと云へど覺束なし、按に相模國鎌倉郡上之村長慶寺の僧に、昔武田信玄相州に出張し、國府津門徒眞樂寺を強て陣所とせしに、領主北條氏康大に怒て領内同宗の寺院改宗させるは悉破却せしより、或は餘國に移り、或は改宗して一度關東にかの宗廢せしことありといへば、當院も其頃廢せしを、後年眞言宗の僧再建せしにや、
寺寶。三方正面彌陀一軸。縁起に云へる親鸞の自畫と云もの是なり一向宗たりし時の本尊なり、
天神社
楠井蹟。今深さ三尺、圓徑七尺許の窄所なり、説前に出せり、
堂。境内なれど、別に門あり、像は弘長元年親鸞八十九歳の時自刻せしと云、坐像にて長三尺許、縁起に西念洛に在日、師に乞得て歸り、壇上に安じ又野田長命寺にも置けり、西念寂せし後二世覺念が肖像を造り、三世西順の時始て兩寺に僧侶を分ちし後、二像をかはるがはる安ぜしが、建武の亂に長命寺破却の時、當院の三世西順鸞が自作の像を當所に携来りしかど、亂世の間またも失はんことを恐て、門の傍に埋めり、西順寂して其傳さへ失ひたるに、四世了西が時靈夢を蒙り、門前土地の埋所を穿て彼像を得たり、廻り皆蟻子の棲となり、全體朽損してありしとなり、初西順が埋みしよりこゝに四十四年、其頃近郷大に疫す、病者拝して靈驗を得、遠近となく信仰せり、後年次第に損せしかば、天正年中漆を以てかため再興して黒漆とす、此像出現の時土の動きしをもて、里俗呼ておむくさまと稱す、其圖前に出せり、又其頃信濃國長命寺は、足立郡野田より移りしなれば、往古の由緒をもて二像共に彼寺に還さんと寺僧の計りしを、當所は鸞が古跡たれば、今改宗すといへども、猥に其蹟を廢し難しとて、西念の像のみを與へしと云、
庵。堂守の僧住せり、
西念墓。石碑は高五尺許、名を彫しのみにて年月を記さず、
池。親鸞像を掘出せし蹟なりと云、廣さ圓徑三間許、土人御無垢の池と唱へ、又病者此水に影を寫して祈願すれば驗ありとて、鏡か池とも稱す、(新編武蔵風土記稿より)
清浄寺の周辺図
参考資料
- 「吉川市史・通史編」
- 新編武蔵風土記稿