宮島勘左衛門之碑。比企郡滑川町月輪にある旧跡・名所

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宮島勘左衛門之碑。比企郡滑川町月輪にある旧跡・名所

宮島勘左衛門之碑の概要

宮島勘左衛門之碑は、比企郡滑川町月輪にある名所旧跡です。宮島勘左衛門之碑は、江戸時代後期に生まれた当地出身の農民でマッチの原型となる付木を改良した人物です。付木としては当時竹皮材を使用、当地周辺でも農民の副業として付木を作っていましたが、竹皮が極端に品薄となった時に、竹皮の代用に松の木を使った枇木を完成させたそうです。枇木は大正年間から昭和初期にかけて最盛期を迎え、当地周辺の農家で大量に生産されたそうです。

宮島勘左衛門之碑
宮島勘左衛門之碑の概要
旧跡・名所名 宮島勘左衛門之碑
区分 滑川町指定有形文化財
入場時間 -
入場料 -
住所 比企郡滑川町月輪
備考 -




宮島勘左衛門之碑の縁起

宮島勘左衛門之碑は、江戸時代後期に生まれた当地出身の農民でマッチの原型となる付木を改良した人物です。付木としては当時竹皮材を使用、当地周辺でも農民の副業として付木を作っていましたが、竹皮が極端に品薄となった時に、竹皮の代用に松の木を使った枇木を完成させたそうです。枇木は大正年間から昭和初期にかけて最盛期を迎え、当地周辺の農家で大量に生産されたそうです。

滑川町・埼玉県掲示による宮島勘左衛門之碑について

宮島勘左衛門之碑
宮島勘左衛門は枇木(経木)づくりの創始者です。枇木は月輪周辺ではヒゲ、ヘギなどと呼ばれています。
勘左衛門は文化十一年(一八一四)旧月輪村に生まれました。幼少期より想像力に富み、大変な努力家でした。
勘左衛門は最初、付木(マッチの原型)を製造していました。ある年、関東一円の竹が枯れ、当時包装材として使われていた竹皮がなくなってしまいました。そこで勘左衛門は付木用の松の木をより薄く、幅広に削って、包装材にすることを思いつき、様々な工夫改良を加え、ついに枇木を完成させました。
しかし、勘左衛門が枇木を完成させた頃、竹が再び繁り始め、竹皮が出まわって、枇木は売れず大変苦労しました。
その後、枇木の良さが見直され、大正から昭和初期にかけて枇木生産は最盛期を迎えました。月輪を中心に数百戸の農家が冬場の副業として生産していました。
この碑は勘左衛門の偉業を称え、明治末に関係者によって建てられました。(滑川町教育委員会掲示より)


宮島勘左衛門之碑の周辺図


参考資料