下新倉氷川八幡神社。和光市下新倉の神社
下新倉氷川八幡神社の概要
下新倉氷川八幡神社は、和光市下新倉にある氷川八幡神社です。下新倉氷川八幡神社は、寛治5年(1091)に八幡社として創建、文禄3年(1594)に大宮氷川神社を相殿として勧請した伝えられます。江戸時代には下新倉村の鎮守社として祀られていました。
社号 | 氷川八幡神社 |
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祭神 | 建速須佐之男尊、誉田別尊 |
相殿 | - |
境内社 | 琴平神社、浅間大神 |
祭日 | 例大祭10月 |
住所 | 和光市下新倉3-13-33 |
備考 | - |
下新倉氷川八幡神社の由緒
下新倉氷川八幡神社は、寛治5年(1091)に八幡社として創建、文禄3年(1594)に大宮氷川神社を相殿として勧請した伝えられます。江戸時代には下新倉村の鎮守社として祀られていました。
新編武蔵風土記稿による下新倉氷川八幡神社の由緒
(下新倉村)氷川社
境内除地一町四方、村の鎮守、鎮座の年代詳ならず、村内東福寺の持なり(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による下新倉氷川八幡神社の由緒
中世における新倉は、江戸時代に上・下に分かれ上新倉・下新倉の二村となった。分村の時期は定かではないが、地内の吹上観音堂に現存する元亀二年(一五七一)銘の鰐口に「武州新座郡下村」とあることから、既に戦国時代に実質上の分村が進んでいたと思われる。
当社は、そのうちの下新倉の地内に鎮座し、村の鎮守として祀られてきた。『明細帳』に「相伝八幡社は寛治五年辛未歳(一〇九一)創立し氷川社は文禄三甲午年(一五九四)合殿に勧請す」と記されているように、当初は八幡社だけが祀られていだようである。『下新倉村誌』には「足立郡高鼻村氷川社ノ分霊ヲ相殿二合祀ス、降ツテ正保二乙酉年(一六四五)三月地頭酒井壱岐守地ヲ検シ賦フルニ神地二千六百六十坪ヲ以テス、明治元年別当東福寺ヲ廃シ更メテ祠守ヲ置ク」と記されている。
明治初年の神仏分離によって地元の組頭秀五郎が柳下矢柄と改名し、神勤することを品川県に願い出て許されている。なお、当社は昭和二十年五月二十五日夜に飛来した米軍機B29の投下した焼夷弾によって焼失したため、戦後、白子小学校の奉安殿を本殿として移築し、更に平成八年五月に本殿・幣殿・拝殿を改築した。また、昭和四年には分村により東京大泉長久保地区に氷川神社を分祀している。(「埼玉の神社」より)
下新倉氷川八幡神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿