東陽寺。北葛飾郡松伏町下赤岩にある真言宗豊山派寺院

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東陽寺。関東八十八ヶ所霊場77番

東陽寺の概要

真言宗豊山派寺院の東陽寺は、赤岩山と号します。東陽寺の創建年代等は不詳ながら、天和元年(1681)に僧元良が中興開山したと伝えられます。当寺所蔵の庚申塔3基は、松伏町有形文化財に指定されています。また、関東八十八ヶ所霊場77番です。

東陽寺
東陽寺の概要
山号 赤岩山
院号 -
寺号 東陽寺
住所 北葛飾郡松伏町下赤岩532
宗派 真言宗豊山派
本尊 不動明王像
葬儀・墓地 -
備考 -



東陽寺の縁起

東陽寺の創建年代等は不詳ながら、天和元年(1681)に僧元良が中興開山したと伝えられます。

松伏町史による東陽寺の縁起

『新編武蔵風土記稿』には下総国葛飾郡堤台村報恩寺(後に同郡中野台村に移転。現千葉県野田市) 末であり、寺宝として阿弥陀如来と愛染明王の画があるとされているが、いずれも現存しない。『寺院明細帳』によれば「由緒として不詳なれども天和元年(一六八一) 中興開山法流相続同年の創立」とある。大正十二年(一九二三) の関東大震災によって庫裡が大破し取り壊した。その後の再建年は不詳。昭和十四年、報思寺末から奈良長谷寺末となった。
墓地には、寛永十五年(一六三八) 銘の五輪塔を最古として、寛永期銘の墓石数基、十七世紀の墓石が多く存在する。
先代住職によると昭和三十七年雷火により山門を残し本堂及び本尊を焼失し、同四十一年に再建された。本尊がなかったため、先代住職とゆかりのある東京都世田谷区大空閣寺から現在の本尊を迎えたとのこと。
本尊は「日限不動尊」と呼ばれ、期限を区切って願えば必ずかなうと言われる。山門は、平成元年頃に老朽化により建て直されたが旧山門の文化十四年(一八一七) 銘の木鼻は保存されている。半鐘は戦争時に供出となり吉川市南広島に集められたが、そのまま終戦を迎えて返されずにそこで使用されていた。近年になってその事情が判明し、東陽寺に返された。
現在、境内には、本堂及び庫裡、山門の他、境内に並ぶ三基の庚申塔は「東陽寺庚申塔群」として町有形民俗文化財に指定されている。「関東八十八ヵ所霊場・七十七番札所」にあたる。(松伏町史文化財編より)

新編武蔵風土記稿による東陽寺の縁起

(下赤岩村)
東陽寺
新義眞言宗、下總國葛飾郡堤臺村報恩寺末、赤岩山と號す、本尊不動を安ず、寺寶に阿彌陀の畫像あり、親鸞の筆愛染明王の畫幅あり、弘法の筆、(新編武蔵風土記稿より)


東陽寺所蔵の文化財

  • 東陽寺庚申塔群(松伏町指定有形文化財)

東陽寺庚申塔群

庚申塔は、庚申信仰に基づいて主に江戸時代に建てられたものです。60日毎にめぐってくる庚申の日には、人の体内にいる三尸の虫が天に昇って神にその人の罪を告げに行くと考えられていました。そこで庚申の日は夜通し起きて、三尸の虫が体から出ていかないようにしました。これを庚申待といい、庚申待をするための庚申講という組織ができました。庚申塔は講の人々の長生きや幸福を願って建てられたものです。
ここには3基の庚申塔があります。大きく梵字で刻まれたものは、文政4年(1821)の造立です。庚申講の守り本尊である青面金剛を漢字又は刻像で表現する例が一般的で、このように梵字のみで表現した例は少数です。更に左側面の銘文中には「・・・三尸消滅・・・」とありますが、「三尸」の文字が刻まれた庚申塔は非常に稀少で、庚申信仰の研究上で貴重な資料です。
中央に銘文が刻まれたものは、町内でも最古期のもので天和3年(1683)の造立です。当時の墓石と似た板碑型で、江戸時代前期の様式をよく残しています。上部にはそれぞれ異なる仏を現す梵字が三字刻まれますが、青面金剛を含んでいません。この時期、青面金剛が守り本尊として定着し切っていなかったことが分かり、こういった例も多くありません。
青面金剛を刻像したものは、寛政6年(1794)に作られたもので、江戸時代中期の様式の典型的な作例です。(境内掲示より)

東陽寺の周辺図