青山氷川神社。三峰大明神と称して永享年間創建、享保10年改称
青山氷川神社の概要
青山氷川神社は、比企郡小川町青山にある神社です。青山氷川神社は、青山の総鎮守として永享元年(1429)に三峰大明神として創建したとされます。三峰神社の本社が秩父にあり修験寺院が別当と勤めていた点や、秩父・当地周辺から鉱山が採掘されていた点などから、当社が三峰大明神として創建したのに修験者が関与していなのではないかとも推測されています。長期にわたり三峰大明神と称してきましたが、享保10年(1725)に氷川社と改称しています。
社号 | 氷川神社 |
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祭神 | 健速素戔嗚尊、奇稲田姫尊、大己貴命 |
相殿 | - |
境内社 | 天神2社、稲荷、大黒天 |
祭日 | 例大祭10月15日、祈年祭3月15日 |
住所 | 比企郡小川町青山1312 |
備考 | - |
青山氷川神社の由緒
青山氷川神社は、青山の総鎮守として永享元年(1429)に三峰大明神として創建したとされます。三峰神社の本社が秩父にあり修験寺院が別当と勤めていた点や、秩父・当地周辺から鉱山が採掘されていた点などから、当社が三峰大明神として創建したのに修験者が関与していなのではないかとも推測されています。長期にわたり三峰大明神と称してきましたが、享保10年(1725)に氷川社と改称しています。
新編武蔵風土記稿による青山氷川神社の由緒
(青山村)
氷川社
村の鎮守なり、別當愛宕山浄學院と號す、本山派修驗、西戸村山本坊の配下なり、不動を本尊とす、(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による青山氷川神社の由緒
氷川神社(青山一三一二)
青山に鎮座する氷川神社は、通称を「明神様」という。その由緒については、『比企郡神社誌』に、永享元年(一四二九)に青山村の総鎮守として創立され、当初は,三峰明神と称したが、享保十年(一七二五)に氷川神社と改称されたという旨が記されている。
江戸時代は、神社に隣接してあった本山派修験の青岩山浄学院が別当として神社の祭祀を行っていた。浄学院は、神仏分離の後に、土岐姓を名乗って神職となったが、今でも地元では土岐家のことを「法印様」と呼ぶ人が少なくないのは、こうした経緯によるものである。なお、土岐家文書によれば、浄学院が許状を受けたのは宝暦七年(一七五七) のことであり、それ以前は幾度か別当が変わっていることから推測して、享保十年の氷川神社への改称は、こうした別当の退転に伴うものではなかったかとの見方もされている。
氏子の間では、氷川神社は農耕の神として信仰が厚い。そのためか、毎年三月十五日に行われる祈年祭は通称を「田起こし」といい、農業が主体であったころは、氏子の各戸ではこの日に変わり物を作って祝ったものであり、この祭りが終わると、本格的な農作業が始まった。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
「埼玉の神社」による青山氷川神社の由緒
氷川神社<小川町青山一三一二(青山字根木)>
青山は、外秩父山地一角、小川盆地のほぼ中央に位置する。地名の青山は、鉄を産する地から名付けられたとする説がある。『地誌青山村』には「鉱山 村ノ南方鉱山、往古何年頃ナリシカ採掘セシコトアリシモ中絶シアリシガ維新ノ後更ニ採掘ヲ試ミタレトモ十分ノ結果ニ至ラズ中途ニシテ廃絶ス今ハ只試掘痕ノ存スルノミ」と載る。また、地内には、鍛冶の神として崇められた愛宕神社(当社に合祀)がかつてあり、その裏山を「神名」という。神名は、俗に「鉄穴」であるということから、やはり採掘とかかわりがある。当地一帯は、外秩父山地を抖擻した修験者が活躍している。各地の鉱山が、山間の知識を十分に蓄積した修験者により発見されていることから、当地の鉱山も在地修験とかかわりがあったことと考えられる。
当社の創建は、社記によると、永享元年(一四二九)で、当初、三峰大明神と号したと伝える。三峰大明神を祀る本社、すなわち現在の三峰神社は、秩父山塊にある標高一一〇〇メートルの大滝村三峰に鎮座している。江戸期は、京都聖護院直末、天台宗本山派修験で、別当観音院が支配している。三峰大明神の勧請は、恐らく在地修験により行われたのであろう。
三峰大明神の史料としては、寛文八年(一六六八)の『武州比企郡青山村御縄打水帳』があり、「田九畝拾八歩 三峰大明神」と記されている。この江戸初期の史料は、比較的早期の三峰信仰を知る上で貴重なものである。
当社の社家である土岐家には、修験関係の許状、補任状が残る。この内、古いものでは、正徳元年(一七一一)の大常院の「袈裟着用許状」、次いで享保九年(一七二四)の青山坊の「僧都補任状」、泉蔵院の「袈裟、貝緒両緒着用許状」などがある。浄学院と号した土岐家に、これら坊・院の許状があるということは、恐らく当社の別当が次々と退転したことを示しているのであろう。
この中で、当社は、享保十年に、社号を「三峰」から「氷川」へ変更している。これは、かつて三峰大明神を祀っていた大常院が退転し、その後、恐らく青山坊か泉蔵院が当社の祭祀に当たるに及び、新たに氷川大明神を勧請したのであろう。これらは、氷川神社とかかわりのある修験であったかもしれない。
土岐家、すなわち浄学院の許状は、宝暦七年(一七五七)以降のものが残されている。浄学院は、本山派修験で、青岩山と号し、西戸村山本坊配下であった。また『風土記稿』には、氷川社の別当が浄学院であることを載せている。浄学院は、明治初年の神仏分離に際し、復飾して神職となった。(「埼玉の神社」より)
青山氷川神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「小川町の歴史別編民俗編」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)