笠原諏訪神社。比企郡小川町笠原の神社

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笠原諏訪神社。小笠原内膳が、慶長年間に勧請

笠原諏訪神社の概要

笠原諏訪神社は、比企郡小川町笠原にある神社です。笠原諏訪神社は、信州から当地に移住してきた小笠原内膳が、慶長年間(1596-1615)に諏訪大社から奉持してきた神体を当地に祀って創建したと伝えられ、江戸期には(小笠原氏から名付けられた)笠原村の鎮守として祀られていました。寄居町白岩諏訪神社・奈良梨諏訪神社(現八和田神社)と共に「兄弟三社」と称されています。

笠原諏訪神社
笠原諏訪神社の概要
社号 諏訪神社
祭神 建御名方命
相殿 -
境内社 天手長男神社・愛宕神社・稲荷神社・三峰神社、大国主命、神日本磐余彦尊、弥勒大菩薩
祭日 例大祭10月5日、祈年祭2月25日
住所 比企郡小川町笠原229-4
備考 -



笠原諏訪神社の由緒

笠原諏訪神社は、信州から当地に移住してきた小笠原内膳が、慶長年間(1596-1615)に諏訪大社から奉持してきた神体を当地に祀って創建したと伝えられ、江戸期には(小笠原氏から名付けられた)笠原村の鎮守として祀られていました。明治4年に村社に列格、明治45年陣屋の愛宕神社・栃本の神明社を合祀しています。寄居町白岩諏訪神社・奈良梨諏訪神社(現八和田神社)と共に「兄弟三社」と称されています。

新編武蔵風土記稿による笠原諏訪神社の由緒

(竹澤笠原村)
諏訪社
村の鎮守なり、村民持、下並に同じ、(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による笠原諏訪神社の由緒

諏訪神社(笠原二三〇)
笠原の諏訪神社は、慶長年間(一五九六-一六一五)の創立と伝えられており、小笠原内膳という武者が当地に落ち延び、土着した際、守護神として信州(現長野県)の諏訪大社から懐に入れて奉持してきた神体を現在の場所へ祀ったことに始まると伝えられている。この地を笠原というのも、小笠原内膳の姓に由来しており、諏訪神社は小笠原内膳が住んだ屋敷の鬼門に位置しているという。
ちなみに、氏子の笠原イッケは小笠原内膳の後裔であるとされており、このイツケの家の間では、正月に門松は立てず、家の土間の中に一本の松を立てるのが家例となっている。これは、小笠原内膳がこの地に落ち着いたのはちょうど年の暮れであったが、門松を立てると目立って敵に見つかる恐れがあるため、家の中に松を立てて新年を迎えたことに始まるものであるという。
氏子の間では、白蛇は諏訪神社の眷属と伝えられ、そのために氏子の間では「白蛇は大切にしなければならず、粗末があってはいけない」といわれてきた。
また、「諏訪神社の氏子は白い鳥を飼ってはならない」ともいい、昔は白い色の鶏を飼うことを禁忌としていた。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による笠原諏訪神社の由緒

諏訪神社<小川町笠原二三〇(笠原字宮ノ脇)>旧村社
当社の鎮座する笠原は、外秩父山地の東縁部、兜川の支流滝川流域の山間地に位置している。古くは竹沢村と称していたが、正保・元禄年間(一六四四-一七〇四)のころに六か村に分村した一つであった。
当社は、創祀年代を慶長年間(一五九六-一六一五)と伝えられている。信州諏訪から落ち延びて来た武者、小笠原内膳が当地に住み着き、守護神として奉持して来た建御名方命の神体を祀ったことに由来するという。もともと笠原氏は、古代の名族の一つで、全国の各地に進出して活躍した一族であったが、その中心地が信州であり、諏訪大社の神官家の中にも笠原一族が活躍していたことが明らかにされている。したがって、この時の武者が、その流れを汲むものであることは十分に推定できよう。更には、当社の社紋が諏訪大社と同一の「穀」であることもそのことを証する。また、『風土記稿』に「諏訪社 村の鎮守なり、村民持」とあるのは、小笠原氏の末裔が奉祀していたことをうかがわせるものであろう。
明治四年に村社となり、同四十五年四月、陣屋の愛宕神社、栃本の神明社の二社を合祀した。
なお、当社は、かつて寄居町白岩の諏訪神社と小川町奈良梨の諏訪神社と共に「兄弟三社」と称され、近郷に聞こえた名高い神社の一つであった。(「埼玉の神社」より)


笠原諏訪神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)