能増八宮神社。松山城主上田安独斎が社を再興
能増八宮神社の概要
能増八宮神社は、比企郡小川町能増にある神社です。能増八宮神社の創建年代等は不詳ながら、かつて当地を治めた豪族が祀った社と伝えられ、松山城主上田安独斎も当社を崇敬、社を再興して神領を寄付したといいます。江戸期には能増村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。
社号 | 八宮神社 |
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祭神 | 日本武尊 |
相殿 | - |
境内社 | 天神社、金刀比羅社、神明社、浅間社 |
祭日 | 春祭り4月15日前後の日曜日、秋祭り10月17日前後の日曜日 |
住所 | 比企郡小川町能増282 |
備考 | - |
能増八宮神社の由緒
能増八宮神社の創建年代等は不詳ながら、かつて当地を治めた豪族が祀った社と伝えられ、松山城主上田安独斎も当社を崇敬、社を再興して神領を寄付したといいます。江戸期には能増村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による能増八宮神社の由緒
(能増村)
八宮明神社
村の鎮守なり、祭神は日本武尊にて、十一面觀音を本地佛とせり、當社古へしばしば丙丁の災に罹りて、社頭も次第に衰微せしを、松山の城主上田安獨斎再興して、神領をも寄附せし由、萬治元年別當秀永が記せし縁起に見えたれど、舊記等は皆失ひて詳なることを傳へず、
末社。鹿島社、香取社、稲荷社
別當南光院。本山派修驗、男衾郡板井村長命寺配下、八宮山林蔵寺梅本坊と號す、開山長山法印寂年を傳へず、本尊不動は惠心の作、(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による能増八宮神社の由緒
八宮神社(能増二八二)
能増の八宮神社は、『新編武蔵風土記稿』に「村の鎮守なり、祭神は日本武尊にて十一面観音を本地仏となせり、当社古しばしば丙丁の災いに躍りて杜領も次第に衰微せしを松山の城主上田安独斎再興して神領をも寄付せし由、万治元年別当秀永が記せし縁起に見えたれど旧記等は皆失ひて詳なること伝へず」と記されており、江戸時代は本山派修験の八宮山南光院が別当として祭祀を行っていた。
一方、氏子の間では、八宮神社はこの地を治めた豪族が祀ったと伝えられており、古くから能増の村鎮守として村の人の心の拠り所となってきた。また、神社の約五〇メートル東を流れる市野川には日本武尊が東征の折に修祓をしたと伝えられる精進場という場所があり、かつては参詣する人はそこで心身を清めたものであった。
特別な信仰はないが、「いろいろな点で村人をお守り下さる神様である」といわれ、さまざまな願かけが行われており、「神社のお陰で救われた」という人も多い。
また、氏子の間では、鎮守として八宮神社を祀っていることから、手締めは縁起をかついで「三・三・二」の八回で行うのが習いとなっている。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
「埼玉の神社」による能増八宮神社の由緒
八宮神社<小川町能増二八二(能増字森下)>
能増は、小川町の北東の境に位置する。一帯は、なだらかな丘陵地帯に挟まれたほぼ一キロメートル幅の帯状の平野部で、その中央を縫うように豊かな市野川が流れ、水田が開けている。地名は、沼地のノマに由来するという説があり、実際、新田開発に当たり、沼を利用した足り池や新田池などがあった。能増と表記されるようになったのは、正保年間(一六四四-四八)のことで、天正二十年(一五九二)に旗本の水野新右衛門長勝が当地を知行した際の御朱印には「能増郷」となっている。
当社は、市野川沿いに鎮座している。周辺は地勢的に耕地に恵まれていることから、古くから開けており、平安期の集落跡である岡原遺跡がある。また、交通の要所でもあり、当社の西脇に旧鎌倉街道が通る。付近の小名の「町場」が、往時の繁栄を偲ばせる。当社の創建年代は明らかではないが、当地を治めた豪族を祀った社であると伝える。鎮座立地から推して当地一帯の開拓者であったと考えられ、北殿・南殿という小名の地が周辺にあることから、有力者が存在したことは間違いない。中世には、かなり信仰を集めており、『風土記稿』によれば、万治元年(一六五八)の縁起に、戦国時代の松山城主、上田安独斎も当社を崇敬し、社殿の再建や神領の寄進を行ったことが記されていたと見える。また、社号は同書に「八宮明神社」と記載があり、別当は本山派修験の南光院である。(「埼玉の神社」より)
能増八宮神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「小川町の歴史別編民俗編」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)