上小川神社。比企郡小川町小川の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

上小川神社。旧八雲大神・天王社、市の神

上小川神社の概要

上小川神社は、比企郡小川町小川にある神社です。上小川神社の創建については諸説あるものの、応永年間(1394-1428)には石祠が建立され、八雲大神或いは天王社と称され、市神(定期的に開催された市場の神)として祀られていたといいます。当地にはかつて西光寺持ちの寺子屋があったことから、明治維新後には小川小学校が開校、小川小学校が移転した跡地に、当社が大正5年遷座、稲荷神社と神明社を合祀して上小川神社と改称しています。

上小川神社
上小川神社の概要
社号 上小川神社
祭神 素戔嗚尊
相殿 -
境内社 -
祭日 例大祭7月25-27日、春祭り3月初午、秋祭り11月28日
住所 比企郡小川町小川68
備考 -



上小川神社の由緒

上小川神社の創建については諸説あるものの、応永年間(1394-1428)には石祠が建立され、八雲大神或いは天王社と称され、市神(定期的に開催された市場の神)として祀られていたといいます。当地にはかつて西光寺持ちの寺子屋があったことから、明治維新後には小川小学校が開校、小川小学校が移転した跡地に、当社が大正5年遷座、稲荷神社と神明社を合祀して上小川神社と改称しています。

新編武蔵風土記稿による上小川神社の由緒

(小川村)
天王社
村民之持(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による上小川神社の由緒

上小川神社(小川六六)
上小川神社は、市神すなわち小川の市の守り神として勧請された八雲神社(江戸時代には「天王社」と称した)に、大正四年九月十日に神明町の神明大神社と稲荷町の稲荷神社を合祀したことにより、社号を上小川神社と改めたものである。ちなみに、この杜号は、小川の総鎮守である下小川の八宮神社に対し、八雲神社が上手に位置することから付けられたものであるという。
上小川神社の母体となった八雲神社の由緒については、東秩父村の身形神社の分霊を勧請して祀ったとか、大塚から小川に市が移つてきた際に、八雲大神の掛軸を市神として祀ったのが始まりであるなど諸説あるが、応永年間(一三九四-四二八)には現在の本町二丁目に石祠が建立されている。当初は往還の中央にあったこの石祠は、のちに新井屋瀬戸物店脇の道端に移して祀られていた。
それが、大正四年に、神明大神社・稲荷神社との合併によって現在の境内に移ったのであった。現在の境内は、西光寺持ちの寺子屋があったところで、その後小川小学校の校舎が建てられていたが、同校が移転した跡地を利用して、神社の用地としたものである。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による上小川神社の由緒

上小川神社<小川町小川六八(小川字下町)>
当地は、槻川・兜川流域の小川盆地に位置し、地内で両河川が合流する。古来、人々は槻川に対して支流の兜川を小川と呼んでいたのが地名に転化したと伝えられている。当地方は小川和紙で有名であるがその歴史は古く、『正倉院文書』の宝亀五年(七七四)に「武蔵国紙四百八十張」と載る。河川の利用と一帯に自生する楮を使用して、当地の産業として営まれていたと考えられる。
当社は、初め「八雲大神」の掛軸を祀っていたと伝え、応永年間(一三九四-一四二八)に石祠が建立されたという。江戸幕府が開かれ寛永年間(一六二四-四四)以降、江戸が大消費都市となるに伴い、小川和紙の生産が大きく発展した。しかも、当地は江戸から秩父への往還の宿駅で、物資の集散地として毎月一・六日に市が立った。市が寛文二年(一六六二)に大塚村から移転し、同じころに東秩父村の身形神社の分霊を市神様として当社に勧請してからは、当社は商売繁昌の神として広く信仰を集めるようになった。なお、和紙は農家の副業として農閑期に営まれていたものであるため、当社は農民からの信仰も厚く、『風土記稿』は「天王社 村民持」と記している。『郡村誌』は「八雲社」と載せ村の中央に鎮座とあるが、大正五年に現社地に社殿が新築され移転した。同時に稲荷神社と神明社を合祀し、総鎮守である下小川の八宮神社に対して上に位置するので現社号に改めた。(「埼玉の神社」より)


上小川神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)