大塚八坂神社。比企郡小川町大塚の神社

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大塚八坂神社。天保8年の疫病により梅皇山から遷祀

大塚八坂神社の概要

大塚八坂神社は、比企郡小川町大塚にある神社です。大塚八坂神社の創祀については不詳ながら、かつては梅皇山(大塚八幡神社)境内に祀られて、梅皇山牛頭天王と称していたといいます。天保8年(1837)の疫病流行に際して、霊験が著しかったことから、大塚佐右衛門が私有地を提供して当地へ遷座、これを当社の創建としています。

大塚八坂神社
大塚八坂神社の概要
社号 八坂神社
祭神 素戔嗚尊
相殿 -
境内社 大黒天
祭日 夏祭り7月26日
住所 比企郡小川町大塚94
備考 -



大塚八坂神社の由緒

大塚八坂神社の創祀については不詳ながら、かつては梅皇山(大塚八幡神社)境内に祀られて、梅皇山牛頭天王と称していたといいます。天保8年(1837)の疫病流行に際して、霊験が著しかったことから、大関町の大塚佐右衛門が私有地を提供して当地へ遷座、これを当社の創建としています。稲荷神社、七夕神社を本殿に合祀、大関町町内会が主体となり運営しています。

新編武蔵風土記稿による大塚八坂神社の由緒

(大塚村)
該当記載なし(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による大塚八坂神社の由緒

八坂神社(大塚九四)
大塚の八坂神社は、秩父街道の宿場の一角を成していた大関町の町中にある。そのため周囲に商庖や民家が建て込む狭い立地を有効に使った独特な境内配置がなされている。現在の社殿は、社務所と共に平成三年四月に竣工したもので、独特な造りである。
この八坂神社は、境内にある頃徳碑によれば、元は「梅皇山牛頭天王」と称し、天保八年(一八三七)に疫病の流行によって多くの人が亡くなった時、住民がこの牛頭天王に祈願したところ、霊験著しく病魔がたちまち退散したので、大関町の大塚佐右衛門という人が率先して私有地を提供し、町衆と共に社殿を建設の上、梅皇山から牛頭天王を遷嗣したことに始まるという。以来、疫病除けの神として信仰厚く、この社を祀っているおかげで大関町では現在に至るまで二度と疫病が流行することがなかった。
また、社殿内には、伏見稲荷の分霊と伝えられる稲荷神社が併せ把られており、地元の商家の人々から商売繁昌の神として信仰されている。このほか、かつて境内には七夕神社があったが、老朽化が進んだため、平成年の再建時に八坂神社に合祀された。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による大塚八坂神社の由緒

八坂神社<小川町大塚九四(大塚字大関)>
大関町は、江戸時代には秩父街道の小川の宿の一角を成していた地域で、今でもその町並みには宿場の名残が見受けられる。当社は、その街道沿いにあるため、周囲は商店や民家が建ち並ぶ。境内には樹木はないが、町場の神社らしく、植木やプランターに植えられた花が配置され、きれいに整備されている。現在の社殿は、平成三年四月に再建されたもので、狭い境内を有効に生かした独得な造りである。
境内に建てられている石碑には、当社の由緒が刻み込まれている。それによれば、当社は古くは大塚の八幡神社の境内に祀られ、梅皇山牛頭天王社と称していたが、天保八年(一八三七)、この地に疫病が大流行し、多くの人が死んだため、住民が牛頭天王に祈願したところ霊験著しく、病魔はたちまち退散した。そこで、当地の大塚佐右衛門が率先して私有地を提供し、住民と共に社殿を建設の上、八幡神社の境内から牛頭天王を遷祠したのが当社の始まりであるという。
また、棟札には、当社の社殿は、延宝七年(一六七九)九月と嘉永二年(一八四九)六月、明治元年九月の三回再建されたことが記されている。前述の大塚佐右衛門らによる遷祠は、嘉永二年の再建のことを指すのであろうか。更に、別当については、延宝の時が蓮蔵院、嘉永の時が梅岑寺、明治の時が大教院となっている。蓮蔵院と梅岑寺は同じ寺のことであるが、大教院については不明である。(「埼玉の神社」より)


大塚八坂神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)