白鳥神社。鉱脈から生まれた発光伝承とそこから舞飛んだ白鳥伝説
白鳥神社の概要
白鳥神社は、比企郡小川町勝呂にある神社です。白鳥神社の創建年代等は不詳ながら、当社の前谷津(字神出)で夜ごとに光るものがあり、光の発する場所を掘ると十一面観音の像が現れて、二羽の白鳥が舞い飛んだことから、十一面観音を安置して創建したと伝えられます。明神様と称され、江戸期には勝呂の鎮守として祀られ、明治維新後は勝呂・木呂子の鎮守として祀られています。
社号 | 白鳥神社 |
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祭神 | 日本武尊 |
相殿 | 三光(妙見)、手長、稲荷、淡島、琴平、天神 |
境内社 | 三峰社 |
祭日 | 春祭り4月15日前後の日曜日、秋祭り10月14・15日前後の日曜日 |
住所 | 比企郡小川町勝呂310 |
備考 | - |
白鳥神社の由緒
白鳥神社の創建年代等は不詳ながら、当社の前谷津(字神出)で夜ごとに光るものがあり、光の発する場所を掘ると十一面観音の像が現れて、二羽の白鳥が舞い飛んだことから、十一面観音を安置して創建、その年代は暦応3年(1430)とも、明徳年間(1390-1394)とも、また天文3年(1534:「郡村誌」)とも伝えられます。「埼玉の神社」では、当地周辺では古くからマンガン・黄銅鉱を産出することから、上記のような発光伝説が生まれ、の霊が白鳥と化して飛び去ったとする白鳥伝説と組み合わされたのではないかと記しています。明神様と称され、江戸期には勝呂の鎮守として祀られ、明治維新後は勝呂・木呂子の鎮守として祀られています。
新編武蔵風土記稿による白鳥神社の由緒
(男衾郡竹澤勝呂村)
白鳥明神社
村の鎮守なり、本地佛十一面觀音を安ず、
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八幡社
二社共に西光寺持、
西光寺
天台宗、赤濱村普光寺末、琴笙山本浄院と號す、本尊阿彌陀、開山法印宗亨、寂年詳ならず(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による白鳥神社の由緒
白鳥神社(勝呂三一〇)
白鳥神社は、勝呂・木呂子両村の鎮守として信仰されてきた杜である。祭神は日本武尊であるが、本殿の中には本地仏の十一面観音像が安置されている。
口碑によれば、白鳥神社は暦応三年(一四三〇)ごろの創立といい、以来、六十年ごとに大祭を執行するのを例としてきた。最近では昭和十五年がこの年に当たり、紀元二千六百年の奉祝と合わせて第十回大祭が盛大に執行された。また、「神社の前谷津(字神出)で夜ごとに光るものがあり、村人たちはこれを恐れ、谷津に近づかなかった。その時、戦に敗れた一人の武士が当地にさしかかり、その話を聞いて光の発する場所を掘ると十一面観音の像が現れると共に上空を二羽の白鳥が舞い、掘り終わると同時に白鳥は向かい側の山の山腹に飛んで行って止まった。武士と村人たちは、あの白鳥は神の使者に相違ないとして白鳥の止まった場所に十一面観音を安置した。それゆえ、この杜を白鳥大明神という」との伝説もある。
氏子の間では、右の話に出てくる十一面観音像こそが本殿に納められている仏像であるといい、白い鳥を飼うのが禁じられてきた。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
「埼玉の神社」による白鳥神社の由緒
白鳥神社<小川町勝呂三一〇(勝呂字西山)>
当社南方一キロメートルほどにある地を小名神出と呼んでいる。ここは古くからマンガン・黄銅鉱などを産出する所である。
当社の創祀伝説は、この鉱脈とかかわりが深い。
村内の谷津(現在の字神出)で夜ごと光るものがあり、村人は恐れおののき近づく者もいなかった。ある時、当地を通りかかった一人の落武者がその話を耳にし、光の発する場所を掘り起こしてみると、十一面観音像が現れた。ときあたかも上空を二羽の白鳥が舞い、掘り終わると同時に白鳥は向かい側の山の中腹に舞い下りた。武士と村人らはこの白鳥を神の使いと崇め、白鳥のとまった場所に十一面観音像を安置した。以来、白鳥大明神として祀られるようになった。その創祀は暦応三年(一三四〇)とも明徳年間(一三九〇-九四)とも伝えられている。更に『郡村誌』には「天文三年壬辰(一五三四)二月勧請す」と記されている。祭神は『明細帳』に「日本武尊」とある。
十一面観音像が掘り出された光の発する場所とは鉱脈を示すと考えられる。恐らく右の発光伝説は、別当であった西福寺の法印により、日本武尊の霊が白鳥と化して飛び去ったとする白鳥伝説と結び付けて語られたものであろう。西福寺は当社東側にあった天台宗の寺院で、明治六年に廃寺となった。『風土記稿』に当社は「白鳥明神社 村の鎮守なり、本地仏十一面観音を安ず」とある。(「埼玉の神社」より)
白鳥神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「小川町の歴史別編民俗編」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)