下里八坂神社。寛平年間創建の伝承
下里八坂神社の概要
下里八坂神社は、比企郡小川町下里にある神社です。下里八坂神社は、下里上郷地区で疫病が流行した寛平年間(889-896)に素戔嗚尊を奉斎して創祀したと伝えられます。大聖寺が暦応3年(1340)に開創して以降いつの頃からか、大聖寺の守護神としても奉斎され、大聖寺が祭祀に関与していたといいます。明治維新後の社格制定に際しては無格社とされ、昭和年間に入り山頂に鎮座していた御嶽社を三峰・金比羅合殿に合祀しています。
社号 | 八坂神社 |
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祭神 | 素戔嗚尊 |
相殿 | - |
境内社 | 三峰・金比羅・御嶽合殿 |
祭日 | 例大祭7月15日、春祭り2月23日、秋祭り12月11日 |
住所 | 比企郡小川町下里2348 |
備考 | - |
下里八坂神社の由緒
下里八坂神社は、下里上郷地区で疫病が流行した寛平年間(889-896)に素戔嗚尊を奉斎して創祀したと伝えられます。大聖寺が暦応3年(1340)に開創して以降いつの頃からか、大聖寺の守護神としても奉斎され、大聖寺が祭祀に関与していたといいます。明治維新後の社格制定に際しては無格社とされ、昭和年間に入り山頂に鎮座していた御嶽社を三峰・金比羅合殿に合祀しています。
新編武蔵風土記稿による下里八坂神社の由緒
(下里村)
該当記載なし(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による下里八坂神社の由緒
八坂神社(下里二三四八)
下里の上郷(下里三・四区)で祀る八坂神社は、平山と呼ばれる山の中腹に南面して鎮座しており、百余段の石段を持つ参道の両側には広葉樹や杉が繁っている。多くの八坂神社や八雲神社がそうであるように、この社も明治以前は「牛頭天王杜」と称していた。そのため、今でも通称を「天王様」という。
口碑によれば、この八坂神社は寛平年間(八八九-八九六)に素戔嗚尊を奉斎したことに始まるもので、当時の下里村上郷では疫病激甚を極め、近郷挙げてその猛威に脅える状態であったため、郷人が相談したところ「人事を尽くして神助を仰ぐ」との結論に達したため、創建に至ったという。以後、疫病除けの神として信仰が厚い。
下里上郷の地内には、平貞義の開基と伝える大聖寺があるが、八坂神社は同寺の守護神でもある。氏子によって行われる獅子舞が、大聖寺でも奉納されるのは、こうした寺と神社の関係によるものであろう。また、八坂神社の鎮座する平山は、通称を「御嶽山」といい、その名の示すように山の頂には御嶽神社が祀ってあったが、現在は祠は取り払われ、跡に石碑が建っているだけである。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
「埼玉の神社」による下里八坂神社の由緒
八坂神社<小川町下里二三四八(下里字水穴)>
当社は、小川町の東端にそびえる遠ノ平山の中腹に南面して位置し国道二五四号に面して建つ鳥居をくぐり、百余段の石段の参道を登り詰めた所に鎮座する。地元の人は、参道入口の辺りを神南沢と呼んでいる。また、国道の走る谷を挟んで南側には観音山があり、西斜面には暦応三年(一三四〇)の開山と伝わる天台宗大聖寺が建つ。
社伝によると、当社は宇多天皇の寛平年間(八八九-九八)に素盞嗚尊を奉斎したとあり、当時上郷地区に疫病が流行し、その猛威に怯えた郷人が創建したという。そして、いつのころからか大聖寺の守護神として祀られるようになった。江戸期の同寺との関係も『風土記稿』に当社のことが載らず詳らかではない。文化七年(一八一〇)に社殿を改築したと伝わるのみである。そして、明治初年の神仏分離により大聖寺の手を離れた当社は、無格社となった。その後、明治四十三年には現在の石段が組まれている。
なお、遠ノ平山は通称御嶽山と呼ばれ、頂上にはかつて御嶽神社が祀られて、大正以前には橋本姓を名乗る祀職が籠もって祈禱をしていたという。その後、後継者もなく、社殿の荒廃に伴い、当社の末社である三峰・金毘羅の相殿に合祀した。朽ちた社殿は昭和二十年代まで残っていたが、現在では嵐山方面から登る参道と旧社地を伝える碑が建つのみとなっている。(「埼玉の神社」より)
下里八坂神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「小川町の歴史別編民俗編」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)